「売れている芸人」と「うまいのに売れてない芸人」は何が違うのか…何十年も落語に通って「たどりついた結論」
うまさだけを磨いても売れるとは限らない
無名な芸人さんって多いよなあとおもう。 プロの落語家が願っていることは一つのはすだ。 それは「売れたい」。 ふつうそうだとおもう。 落語がうまくなりたいというのは、別の話であって、ある程度はうまくないと売れないからそのためにはうまくないといけないが、でも、うまさだけを磨いても売れるわけではない。 そこがむずかしいし、つらいし、おもしろい。 そもそも、うまい、というのは誰にでもわかる絶対的な基準がない。 プロの落語家が、あいつはうまい、と仲間内で褒める落語家というのがいるが、それは必ずしも素人がうまいとおもう人と一緒ではない。 そして素人に受けている人が売れやすい。 うまいに絶対基準はない。 売れている、というのはわかりやすい。 たくさんいろんなところに出ている人で、多くの人に知られている人で、つまり収入の多い人が売れている芸人さんだ。 マニア以外にどれぐらい知られているかが、有名かどうかの分かれ目だろう。
「ああ、この人おもしろいなあ」とは思うけど
運が必要だ。 厳密にいうなら、運を呼び込むような何かを持っている、ということになるのだが、とにかく自分の力だけでどうにかできるものではない。 落語家が切実に、ああ、もう少し売れたい、というのを何度か聞いたことがある。 まあこれは文章家だって同じような商売なので、似たようなものではあるのだが、落語家は、それをよく口にするとおもう。 たぶん、3人くらい聞いたことがある。 いろいろやってみたが、何かの壁が破れない。 寄席で見ると、ああ、この人おもしろいなあ、すごいなあとはおもうのだが、でもそこから広く露出することがない。なかなかもどかしいところだが、どうしようもない。 もがきつつ何十年とやっている。そのへんの心情が渦巻いているのだろう。だから外の世界の存在である私に、つい吐露してしまう、ということがあるようだ。
ちょっとした差異はどうでもいい
落語はだいたい同じである。 寄席で聞くのは、似たようなネタである。 たまに、ものすごく珍しいネタを聞くこともあるが、それはいわば「珍品を聞かせる係」ともいうべき存在がいて、そういう人が披露してくれるばかりで、大半はみなで同じネタをやっている。 つまり同じセリフの噺を聞くことになる。 セリフは同じなのに、印象が違う。 落語の醍醐味はそこにある。 慣れないうちは、セリフのちょっとした差異を発見して、そこを大事におもってしまったりするが、べつだん、そこはポイントではない。 溜めた家賃が「一両二分と八百」でも「一両と八百」でも、どっちでもいいんである(古今亭はこの『大工調べ』を一両と八百で演じるし、他派は一両二分と八百が多い)。 それより、大家がどんな感じで話すのか、途中からどう空気を変えるのか、頭領が 啖呵を切ってどう空気を破るのか、その気配のうつりかわりが大事である。 そして、「売れている芸人」と、「うまいけどそこまで売れてない芸人」に、わかりやすい違いはない。