西南戦争は「嬉しかった」…戦中に「山の穴」で生まれた老人が見聞きした、戦場のリアル
戦乱を生き延びる強かさ
歴史から得られる学びは多くあります。その「歴史」とは、研究や調査により明らかにされている「史実」だけに限りません。誰もが知る偉人たちのほかにも、同じ時代に日々の生活を営んでいた市井の人たちがいます。その人たちの声や語りという形での「歴史」を記した作品から得られるものもまた多くあります。 そのような市井の人々の語りを書き記した作品の1つが、石牟礼道子『西南役伝説』です。 著者の石牟礼は、1877年に西郷隆盛が新政府にたいして起こした西南戦争について、当時の戦地の様子や暮らしぶりを聞くために、九州中南部の古老たちのもとを訪れます。そこで聞いた話を書き起こし、西南戦争と、その後の日清戦争、日露戦争、世界大戦の世を生きた人々の目から見た社会を描いたのが本作です。 石牟礼は聞き書きをすることで、文化の根っこの育ち方を知りたかったと、初版のあとがきで書いています。人ひとりが現れ、家ができ、村ができ、町になり、社会ができて人々が仕事をもつようになり、文化が創りあげられていくその過程をなぞってみたかった、そうして書かれたのが『西南役伝説』です。 では、なぜ西南戦争なのか。同じく初版のあとがきで以下のように書いています。 〈目に一丁字もない人間が、この世をどう見ているか、それが大切である。権威も肩書も地位もないただの人間がこの世の仕組みの最初のひとりであるから、と思えた。それを百年分くらい知りたい。それくらいあれば、一人の人間を軸とした家と村と都市と、その時代がわかる手がかりがつくだろう。そういう人間に百年前を思い出してもらうには、西南役が思い出しやすいだろう。始めたときそう思っていた。それは伝説の形であるだろう。〉 本作は、市井の人たちの目から見た歴史を伝えてくれます。 序章 深川 では、西南戦争の年、親達が逃げ込んだ山の穴で生まれたという老人の語りで始まります。上からの無理難題な命令をやり過ごしながら暮らした様子が語られます。 〈ありゃ、士族の衆〈し〉の同士々々の喧嘩じゃったで。天皇さんも士族の上に在〈おら〉す。下方〈したかた〉の者は、どげんち喜〈よろこ〉うだげな。会所も士族ば剝がれらしたちゅう話ば、町方からきいて来た者のおって、村中もこっそり知っとったで。戦さが始っても、それやれそれやれ、ちゅう気もあって、百姓共は我家ば見らるる藪に逃げ隠れしとったが、戦さに加担〈かた〉らん地方〈じかた〉の士族の組が、遠うに逃げとったげな。 会所の殿さんな、地〈じだ〉ばあっち遣りこっち遣りして、下方〈したかた〉から寄せらすばっかり。地〈じだ〉も足らんほど取りよらした。小前〈こまえ〉々々じゃ食〈く〉やならん。どもこも困って、たまにゃ馬鹿ん真似もしよったちよ。あん茸〈なば〉はなんちゅうや、ほらあの椎茸なあ、ありゃ、もとは椎の木ばっかりに生えよった。自然とな。今は何のかのに生やすが、匂いのよか茸〈なば〉ぞ。下方〈したかた〉の口にゃ、めった、入る物じゃなか。 ある時、そん茸〈なば〉をば、寄せろちゅう云いつけが来た。あっちん山こっちん山、手分けして漂浪〈され〉ても、いっちょかふたつ、木に成っとるで、云いつけほどにゃ満たん。無理ば云わす。 胸につまった揚句、はぁんち思うて、椎の子(実)の芽立ちして、二寸ばかり伸びとるのを、ぞっくり採って持ってゆき様〈さめ〉、 ──ハイ、木の子でござす、ち云うた。 『上〈うえ〉がおこなえぬ』ちゅうて、百姓は、字ば知るこたでけんじゃったで、なあんも知らん馬鹿も装〈つく〉られよったげな。 会所ともなればムダはせん。 ──馬鹿どんが、折角じゃ植えとけ、 ちいわいた。ここの前のほら、その椎山〈しいやま〉は、そげんして成った山たい。 そういうふうで、どうしても下方〈したかた〉の愚痴が開〈ほ〉げんじゃった。それで、西郷戦争は嬉しかったげな。上が弱うなって貰わにゃ、百姓ん世はあけん。戦争しちゃ上が替り替りして、ほんによかった。今度〈こんだ〉の戦争じゃあんた、わが田になったで。おもいもせん事じゃった」〉 (※引用にあたり、ルビを〈〉で、傍点を太字で表記しています。) 「天皇や士族の力が弱まらないと百姓の世はやってこない。」「士族同士の戦い」であった西南戦を「嬉しかった」と述懐する古老の語りからは、戦乱の世を生き延びた強かさが伝わってきます。 * 【つづき】「幕末の「踏み絵」の恐ろしい実態…親は子どもに「踏み外さないよう」言い聞かせた」では、幕末の踏み絵の様子を見ていきます。
群像編集部(雑誌編集部)