唐十郎「主演」ドキュメンタリーを追悼リバイバル、17年ぶり上映…大島新監督「まさにシアトリカルな人」
事実の中に虚構をしのばせる
ある人物を探究する時、大抵の人は、玉ねぎの皮をむくように表層にあるものをはいでいけば本質、あるいは素顔にたどりつけると思っている。ただ、ことはそれほど単純ではない。とりわけ芝居に生きている唐の場合は。
そこで大島監督は、この映画をつくるにあたって、「事実」の中に「虚構」をしのばせた。「ドキュメンタリーという表現の中で、唐さんの虚構性みたいなことを表現できないか」と考えたからだ。いくつかのシーンは、大島監督自身が脚本を書き、それを唐と劇団員に演じてもらったものだ。
「シナリオがあるシーンの時に、一番ナチュラルなのが唐さん。その時に、やっぱり唐さんって普段から演劇モードというか、まさにシアトリカルだったな、というのはありました」
観客にとって虚実の判別は至難の業。後から筋書きがあるシーンとわかっても、そこに映っているものが「うそ」だと断じる気にならない。心に響く芝居を見た時と同じように。
劇作家で演出家で、俳優
筋書きのあるシーンを演じることに関して、唐は「とても喜んでいた」という。「唐さんは劇作家として評価されている方ですが、ご本人は俳優としてウケたいという気持ちがすごく強い」
「つまり、唐さんの意識の中では、自分が『主演』なんですよね。僕は、これまでのドキュメンタリー同様、『被写体』として接していましたけれど、ご本人は、虚構だろうがドキュメンタリーだろうが関係なくて、カメラに映っている以上は『主演』。そういうことだったんだな、というのが後でわかりました」
ところで、ある場面では、大島監督自身が唐組の芝居にチャレンジする(はめになる)姿が映し出される。「でもやっぱりフォルムが良くないんですよ、僕の芝居は。腰がキマっていない」。その話の流れで、大島監督の母親である俳優の小山明子がこの映画を見た時の話が出た。唐さんが若い俳優にダメ出しをして自分でやってみせる場面に、小山は「めちゃくちゃ反応していた」という。「『やっぱり唐さんの所作は(若い俳優と)全然違う』とすごく言ってたんですよね」。それは絶対的な事実である。