萩本欽一が大切にするのは“運”「金持ちになって10年で家を建てるには野球選手か、芸能人になるしかない」野球を諦め進んだコメディアンへの道
高校卒業後、芸能活動を開始。1966年に坂上二郎とコント55号を結成し、その後人気番組を数々生み出す。「視聴率100%男」とよばれた萩本欽一のTHE CHANGEとはーー。【第1回/全2回】 【画像】萩本欽一が語る「運」 僕は「運」を大切にしている。「運」というのはモグラたたきみたいなもので、あっちがうまく行くとこっちがダメになるといった感じで、ちゃんとバランスがとられてる。 大谷翔平選手のように、「運」なんて関係なく、才能と努力でどんどん夢を実現してしまう人もいるけどね。でも、ドジャースに行ってからの大谷選手を見てたら、やっぱり 「運」の力は大きいなと思った。 まず史上最高額の契約を結び、素敵な奥さんまでもらった。そしたら、開幕早々、通訳の水原一平ちゃんの事件。そして前半、順調に活躍してたら、今度はテレビの報道で豪邸のことがバラされちゃった。でも、シーズンを終わってみれば、史上初の本塁打・ 盗塁の大活躍。「運」と「不運」が交互にやってきた。 ワールドシリーズはケガで、フリーマンがMVP。あれで良かったんだよ。嬉しそうな大谷選手を見てそう思った。リーグ優勝が決まったときなんて、ベッツから「おまえも持ちな」って、トロフィーを渡されてたでしょ。なんだか見ていてこっちも嬉しくなった。 人生も同じ。「運」も、「不運」もやってくる。だから、失敗や、嫌なことがあっても、それは「成功の一、二歩手前の神様のいたずら」くらいに思ったほうがいい。 僕もそうだった。家が貧しかったんで、金持ちになって10年で家を建てるには野球選手か、芸能人になるしかないと考えたわけ。 中学時代は野球部に入部。でも平凡なライトフライを後ろにそらさないために、一歩下がり、ワンバウンドで捕球するような子だった。要するに才能がないのよ。だから、すぐ辞めた。
残るは芸能界。高校卒業後は、浅草の東洋劇場でコメディアンの修業を始めた。5年もした頃、念願のテレビに出ることができたんだよ。ところが、生放送で19回も連続してNGを出しちゃってさ。これでテレビはあきらめ、浅草の舞台に逆戻り。 すると、先輩から声がかかった。「俺、今、熱海で仕事してるんだけど、そろそろ帰りたいんだ。俺の後釜、やってくんない?」 もう何も考えず、喜んで熱海に行ったよ。半年間、住み込みで熱海のホテルのステージに出演した。ステージは夜だから、昼間は砂浜で海をボーッと見てたの。押し寄せる波の音も気持ちよくてさ。だんだん、やる気が出てきて、コントも考えた。 そのコントを持って、東京のアパートに帰ったら、電話がかかってきた。相手は坂上二郎さん。コントの話をしたら、一緒にやりたいって言うんだよね。二郎さんは僕より7つ年上で、「最後の勝負をさせてくれ」とまで言う。こうして結成されたのがコント55号だった。 コント55号はまず浅草の演芸場で受けて、次は日劇ミュージックホール、さらにテレビにも進出した。この頃はもう目の回るような忙しさで、 寝る間もなかった。なのに、映画にも10本以上出た。毎日、朝7時から9時まで松竹の大船撮影所に行って撮影し、それから東京のテレビ局に行くの。映画に主演するなんて幸せなことなのに、その幸せを味わうこともできなかった。しかも監督は『砂の器』のような名作を撮った野村芳太郎さん。試写室で野村監督に 「迷惑かけています」と謝ったら、 野村監督はこう言うわけ。 「欽ちゃんたちが頑張って稼いでくれるから、『砂の器』のような文芸作品も撮れるんです」 さすが巨匠だよね。野村監督は人としての器が大きかった。 萩本欽一(はぎもと・きんいち) 1941年5月7日、東京都生まれ。高校卒業後、浅草東洋劇場の一座に加わり、芸能活動 を開始。66年に坂上二郎とコント55号を結成。その後人気番組を数々生み出し、「視聴率100%男」とよばれた。テレビ以外でも、クラブ野球チーム「茨城ゴールデンゴールズ」を結成し、初代監督に就任するなど幅広く活躍。現在ユーチューブ『欽ちゃん80歳の挑戦!』を配信中。 THE CHANGE編集部
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