阪神淡路大震災20年・震災を伝えた桑原征平アナ ── 自宅半壊も取材で知った「人の温もり」
取材などを通して知った「水」の大切さ
神戸市内の避難所となった学校では、水がないためトイレに困る人が多かった。すると、有志が何人かで校庭に大きな穴を2つ堀り、ブルーシートで囲った形の男・女用トイレを作った。「きっとこれまでの生活ではなかったことやと思う。けど、プールの水もないしこうするしかなかったと思う。大震災が起きるというのはこういうことなのか」と、その光景を思い起こす。 水というと、もうひとつ思い出す光景があるという。それは、半壊した西宮の自宅でのこと。震災から1週間で自宅付近の住宅地は電気が復旧したものの、依然、水とガスは復旧していなかった。周囲や避難所でも「風呂に入れないのがつらい」という声も上がっていたという。 そこで征平アナは思いついた。番組でミシンメーカーの『24時間風呂』生コマーシャルを担当していた関係で、自宅では中古で買ったその風呂を設置していた。「水さえあれば沸かせる」。そう考えていたら、近所に井戸があることも分かった。それさえ入れれば、風呂に入れる。 実際に風呂は沸かせた。そして、近所の人らに自宅の風呂を開放したという。「ただ、井戸から家までは距離があったんで、ポリタンクで水を運んで入れてとみなさんに言いました。風呂の水は約13リットルやったと思う。それでも、みなさん運んではお風呂に入った。近所づきあいがなかった人とも、これで縁ができたりしましたわ」。こうした光景を目の当たりにし、ふだん自分たちはどれだけ水を無駄に使っていたかも知ったという。
阪神淡路大震災の苦しみはまだ続いている
こうした取材を続け、95年4月からは「桑原征平 復興の街」という番組を持つことになり、それは1年間放送された。局アナ生活35年の中で、ニュースを読んだのは20回くらい。管理職時代に事情でニュースを読んだときに視聴者から「征平さんがニュース読んでたけど、何の罰ゲームですか」という問い合わせがあったくらい報道番組とは縁がなかった。 「そんな私が唯一担当した報道番組が、この復興の街でした。取材を通して多くの方々とふれあい、行く先々で『征平さん』と声をかけてもうたり話しをしたりした日々は忘れられません」と20年前の様々な光景を思い出す。 だが「建物とかは建ったかしれんけど、震災によって家を失って二重ローンに苦しんでる人はまだまだたくさんいる。そうしたことも伝えていかなければならない。阪神淡路大震災の苦しみは、まだ続いていますから」。現在は、全国各地から講演依頼も多くあり、震災取材のことも話している。 「水の話しにしても、最近の人は水が出て当たり前と思っているが、自分の経験からこれだけ大事なものということは、これからも『しゃべれる限り』伝えていきたい」。そんな思いを胸に、70歳の征平アナは、きょうもラジオや講演会で話していることだろう。 ■桑原征平(くわはら・しょうへい)1944年5月14日生まれ。元関西テレビアナウンサー。関西テレビ時代はフジテレビの「おはよう!ナイスデイ」の司会や「めざましテレビ」などに出演していた。2004年に定年退職。フリー転身後は、ABC朝日放送ラジオ「桑原征平 粋も甘いも」「征平・吉弥の土曜も全開!!」「征平・あさおのどす恋ラジオ」のメーンパーソナリティや大阪芸術大学の教授にも就任。各地で講演活動なども行っている。