「第8回横浜トリエンナーレ」開幕レポート! 世界中の「生きづらさ」を照らし、絶望から生き抜く術を見出すための現代アート。横浜美術館ほかで開催
本当に「いろんな人を歓迎」しているか?
本展の示すビジョンに勇気づけられるいっぽうで、少し疑問もある。本展は「いろんな人を歓迎するトリエンナーレである」と蔵屋館長は語ったが、誰もがそう感じられるものになっているだろうか? 本展のキュレーションとメッセージには際立った方向性と強度がある。その政治性も含めて興味を持って見るには、ある一定のリテラシーや政治的態度が要求されるのではないか。本展が問題視する「新自由主義」にどっぷり浸かった人や「アートに政治を持ち込むな!」という人……そういう人たちが足を運びたくなったり、実際に展示を見て何かが変わるような回路が十分に用意されているだろうか。個人的には、グランドギャラリー中央に柄谷行人やジュディス・バトラー、ティモシー・モートン、斎藤幸平らによるテキストが置かれた「日々を生きるための手引書」という展示は、本展の理論的枠組みを共有し、参考文献を紹介する有効かつ親切なプレゼンテーションであるいっぽうで、そもそも「難しい本は苦手」と思っていたり、リベラルな思想家たちに興味も共感も持たない人々(アート界ではマイノリティだが、一般的にはマジョリティではないだろうか)を、ふるいにかける関所のようにも見えてしまった。 横浜美術館だけでも作家数、作品数が非常に多く、その背景にある歴史的、社会的、政治的な問題は非常に複雑で重い。たくさんの作家を知ることができるのは国際展の醍醐味だが、多くの鑑賞者にとってこの量は適正なのだろうか。祝祭感が薄く集中を迫られる空間で、怒涛のように押し寄せる世界中の「生きづらさ」。それぞれ固有の「生きづらさ」抱えた鑑賞者が、それをどれだけ受け止めたり、考えを深めたり、自分の身に照らしてみたりできるだろうか。これは慌ただしいプレスツアーで取材せざるを得ない筆者の杞憂かもしれないが、鑑賞者の手元に残るものがポジティブな何かであってほしいと願う。
アジア各地から横浜に集った元気な反逆者たち
とはいえ、本展のように現代の世界を照らす充実した国際展がいま横浜で開催され、多くの人に開かれていることの重要性はいくら強調してもしすぎではないだろう。 わたしが個人的に本展において、「絶望」を突破する「希望」をもっとも感じたのが、旧第一銀行横浜支店で展示されていた「革命の先にある世界」だ。 横浜市認定歴史的建造物である優雅な建築空間が、いきなり高円寺化している。どこかのアジアの地下空間かもしれない。溢れる雑多でアナーキーなバイブス。「アート」とか「文化的実践」といった言葉でスマートに理解したふりをすることが恥ずかしくなるような「本物」さ。社会におけるオルタナティヴな在り方やサバイバル術、自治、反消費を一歩離れたところから観察するのではなく、身をもって実践する作家やグループが集まっている。 任意団体「貧乏人大反乱集団」を主宰し、のちに高円寺でリサイクルショップ「素人の乱」を立ち上げた松本哉。数々の「闘争」や「デモ」を主導してきたが、そこには周囲を巻き込む「面白さ」があり、そのノリが展示にも反映されていた。大きなパネルには「2024年、世界のマヌケ地下文化圏の奴らの交流は、いよいよとんでもないことに!!」と書いてある。 ほかに、リメイクブランド「途中でやめる」の山下陽光、マレーシア、台湾、香港の作家によるインターアジア木版画マッピング・グループ、中国広州を拠点に活動し、コロナ禍の移動制限下でも人々が集まるためにカンフー練習に見せかけて野外集会を行ったエナジー・ウェルビーイング・コレクティブなどの展示がある。それぞれ独自の戦術で監視や抑圧、規制のシステムから逃れて、物を作ったり売ったりしながら楽しくやっている、そんな逞しさと生きた知性に目が開かれる。 旧第一銀行横浜支店とBankART KAIKOにまたがる章は「すべての河」というタイトル。これはイスラエルの作家による同名の小説のタイトルから採られており、イスラエルとパレスチナから来たふたりの恋物語だという。 ここでは紹介しきれないが、ほかの会場も含めて7つの章で構成される「野草:いま、ここで生きてる」の国際展に加え、横浜市内で充実した活動を続けてきたアートスペースがそれぞれ企画する「アートもりもり!」という展示がある。グローバルな視点とローカルな視点が共存する横浜トリエンナーレ。ぜひ時間に余裕を持って足を運んでほしい。
福島夏子(編集部)