アニメ映画版「ルックバック」レビュー 「創作」の意義を見つめた、ひとつの到達点
藤本タツキが抱いていた「無力感」
「ルックバック」の物語はフィクションではあるが、劇中の出来事に原作者の藤本自身の経験が反映されていることも重要だろう。 前述の「SWITCH」のインタビューでは、友達から「そろそろ絵描くのやめた方がいいよ」「オタクだと思われちゃうよ」と言われ、人前で絵を描くのをやめたエピソードを披露している。藤本自身はその後もこっそり絵を描き続けていたそうだが、同様のシーンが「ルックバック」劇中にもあることが思い出される。 このような当時オタクに対しての偏見がまだあったことの他、「自分より絵が上手い人はずっと近くにいる」ことも、劇中の藤野と、現実の藤本の経験で一致している。一方で、美大に進学したことなどは京本の方に反映されている。 さらに大きいのは、藤本が現実で感じたという「無力感」だ。例えば、短編集「17-21」のあとがきでは、東日本大震災直後に被災地のボランティアに行ったときの出来事が記されており、「17歳のその頃からの無力感のようなものがつきまとっている」「何度か悲しい事件がある度に、自分のやっている事が何の役にも立たない感覚が大きくなっていった」こと、そして「そろそろこの気持ちを吐き出してしまいたい」ために「ルックバック」を描き、「描いてみると不思議なものでちょっとだけ気持ちの整理ができた気がした」ことも打ち明けているのだ。 この「ルックバック」の終盤では、日本で起きた重大な事件を連想させる、すべてを打ち砕く出来事が起こる。その事件のみならず、東日本大震災のボランティアで自身が体験したこと、そして現実で起こり続ける悲しい事件を見続け、漫画家である自身の「何の役にも立たない」という無力感を、藤本タツキは作品にぶつけた、という言い方もできる。 その思いを反映したかのように、物語の終盤では「創作には何ができるか」という重要な問いが投げかけられる。そこから「絶対に何かがあった」と、小さくはない意義を感じ取る人は必ずいるだろう。 いずれにせよ、残酷なことが容赦なく起こる、それに対して少なくない無力感を感じる人がいる現実の世界を見据え、それでも創作物の意義を見つけようとする姿勢そのものが尊い作品なのだと、今回のアニメ映画化であらためて考えさせられた。
原作に忠実、そして映画ならではの感動
今回のアニメ映画「ルックバック」はとても原作に忠実な内容だ。(もちろん改変そのものが悪いというわけではないが)大きく足したりも引いたりもしない、58分の尺の中で原作を余すことなく、そして超高密度のアニメーションで表現したことも、漫画のアニメ映画化作品としてのひとつの到達点だと思える理由だ。 2人の女の子の友情、そして創作にまつわる物語から提示された、絶望と隣り合わせの希望は、クリエイターに限らない、多くの人にとって福音になり得る。加えて上映が終わるころには、映画ならではのとてつもない余韻にも浸ることとなった。重ねて書くが、劇場で見る機会を逃さないでほしい。 (文・ヒナタカ)
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