『極悪女王』ダンプ松本とクラッシュ・ギャルズはどんなレスラーだったのか。伝説の目撃者が綴る
いまなお語り継がれる名試合と、ダンプ引退後に誕生した真の「名作」
40年近くたったいまなお語り継がれているのは、ダンプと長与による敗者髪切りデスマッチ(1985年8月28日、大阪城ホール)。 国民的女子プロレスラーの座に上りつめていた長与を丸坊主にしたダンプは、日本中を敵に回した。しかしその一方で、ここまで悪に徹したキャラクターは芸能界に不在だったため、タレント需要が爆上がり。ドラマ、レコード、CM、サイン会、バラエティ番組、アイドル雑誌、週刊誌ほかメディアを制圧し、クラッシュを超えて全女の稼ぎ頭となった。 『極悪女王』では、敗者髪切りデスマッチの凄惨さが見事なまでに完コピされている。ダンプと、同期の大森ゆかりによるダブル引退式も描かれており、同作はそこでエンディングを迎える。 しかし、真の「名作」はその後にも誕生していた。そのひとつが、ダンプの引退セレモニーだ。 ダンプは大森と1988年2月25日、川崎市体育館で引退したが、ほんとうのラストマッチは3日後の28日、地元の埼玉県・熊谷市体育館で行なわれた。すでに人気は下降気味だったが、昭和の一時代を築いた「最恐タレント」の最後を報じるために多くの報道陣が集まり、翌日のワイドショーで放映された。 ファイナルゴングを聞いたダンプは、強烈に施したはずのメイクが涙と汗でほとんど落ちた状態で、「いままでチーちゃん(長与の愛称)とトンちゃん(飛鳥の愛称)をいじめてすいませんでした」と、嗚咽しながら謝罪。頭を深く下げた瞬間、クラッシュファンが大号泣した。リングサイド最前列で見守っていた父の五郎さん、母の里子さん、妹の広美さんも、あふれる涙を何度も拭った。これにて、極悪伝説が終結。ダークヒーローは、最後の最後で愛された。 翌1989年5月6日、プロレスこけら落としとなった横浜アリーナで長与が引退した。スーパーアイドルを華やかに送りだすべく、巨大な横浜アリーナにはプロレス界初の2面リングが設営された。この2面をフルに使って、前半戦と後半戦のあいだにクラッシュのファイナルライブ。ラストマッチでもクラッシュが組み、フィニッシュ後のエクストララウンドでは、長与がセコンドに付いていた選手全員と飛鳥の技を受けきった。 引退セレモニー恒例の花束贈呈で、最後にリングに上がったのは、父の繁さんと母のスエ子さん。この日のために地元の長崎県大村市から駆けつけた両親の顔を見た瞬間、長与は顔面をくしゃくしゃにして泣きじゃくり、膝からマットに崩れ落ちた。童心に戻って、声をあげて泣く長与に、元競艇選手で九州男児の繁さんは、「立て」と命令。アイドルという仮面をかぶりつづけた長与が最後に見せた、生身の自分だった。 このおよそ3か月後の8月、片翼飛行だった飛鳥も後楽園ホールで引退。クラッシュ伝説は封印された。