「こみ上げてくる怒りと自分の無知さ」元THE BOOM・宮沢和史が語る『島唄』と人生を変えた沖縄
どんな小さな約束も守る、気遣いに満ちた素顔
2つの取り組みを通して、沖縄の人たちの宮沢への見方は大きく変わった。自分の言葉を発信したり、住民と接する機会が増え、コミュニケーションが生まれるようになったのだ。 「彼の言動は常に一致しています。誰かに『今度行きます』と言ったら、必ず行く。どんな小さなことでも、約束したらしっかり守ってくれる。僕にアルゼンチンのお土産を渡すためだけに沖縄に来てくれるような人ですから。直接、宮沢さんと接した人はその人柄に触れて、悪く言う人が1人もいなくなるんです」(平田さん) 前出の高校の同級生、五味さんも普段の宮沢をこんなふうに評する。 「本当に気遣いの男ですよ。山梨に帰ってきたときはよく店に来てくれますし、同級生みんなで集まるときは人数をあらかじめ確認して、全員にお土産を持ってくるんです。沖縄の塩とか、『みやんち』(宮沢がプロデュースする沖縄のカフェ)のオリジナルTシャツとか」 五味さんとは数年前から一緒にイベントを行う計画があったが、コロナ禍の影響で2度も頓挫してしまった。そんなとき、宮沢からハガキが届いたという。 「『ごめんね、次はきっと実現させよう』というようなことが書いてありました。メールでもいいのに、ハガキを送ってくるところが彼らしい」 宮沢は家族も、とても大切にしている。母方の祖父は硫黄島で戦死しているが、子どものころ、終戦の特番を見ながら厳しい表情をしていた母親の横顔がずっと気になっていた。沖縄戦の真実を知り、母親が憎いのはアメリカではなく日本だったことに気づく。沖縄を知ることで母親の無念、祖父の無念も理解できるようになるのでは、という思いもあった。 「硫黄島で玉砕した日本兵の骨を遺族に渡すということで祖母が増上寺に骨壺をもらいに行ったら、中に砂しか入っていなかった。その話を聞いて、ショックでした。でも裏を返せばまだ祖父は硫黄島にいるということになる。 このあいだ、『飛鳥』というサイパンから横浜港まで渡る船の中で歌う仕事をしたんですが、途中に硫黄島があるんです。船員の方に朝の8時くらいに付近を通ると聞き、カメラをセットして、100キロまで近づいたときに写真を撮って手を合わせました。航路と硫黄島の近くを船が通った証明書をもらって、母親に渡しました。家の仏壇に飾ってくれています」