「こみ上げてくる怒りと自分の無知さ」元THE BOOM・宮沢和史が語る『島唄』と人生を変えた沖縄
ブラジルに魅せられ、多国籍メンバーとツアー敢行
'94年、宮沢は初めてブラジルのリオデジャネイロを訪れ、逆境をはね飛ばすように明るくパワフルに生きる人々のエネルギーに圧倒される。さまざまな打楽器を購入し、リズムや音の構築をもとにしながら、日本人が踊れて気持ちよく開放される音楽を目指し、6枚目のアルバム『極東サンバ』を完成させた。 このアルバムに収録されている『風になりたい』はイパネマの海岸でメロディーが浮かび、日本で歌詞を書いた。ブラジルのサンバのリズムに、自分たちが抱いている苛立ちや希望を乗せることで、日本の等身大のサンバが誕生した。 '96年、THE BOOMは初のブラジルツアーを敢行。その後も宮沢は、'98年に全曲ポルトガル語に挑戦したソロアルバム『AFROSICK』を南米のアーティストらと制作し、ブラジルでコンサートを行っている。 「のみ込まれちゃったというか、やらなきゃ気が済まないという感じでした。惹かれるままにまったく知らない世界に飛び込んでいくと出会いがあって、そこで音楽を作る仲間ができるというのが僕のスタイル。それによって次の道が切り開かれる、その連続だった気がします。どこへ行くかはわからないし、戻ってくるホームもない。 でも僕はそんなミュージシャンが好きなんです。坂本龍一さん、加藤登紀子さんのような。そういう先輩すらも通らなかった道を行ってみるんだ!という気持ちだった気がします」 ブラジルでも発売された『AFROSICK』は評判となり、宮沢は国籍もバックグラウンドも違うミュージシャンたちと中南米やヨーロッパを回るツアーを行う。 ブラジルをはじめとする南米各地には、戦前、戦後にかけて国策で多くの日本人が送られ、過酷な労働や病で多くの人が亡くなった歴史がある。にもかかわらず、たった100年で日本人はブラジル社会で、なくてはならない存在になっていた。日本にも数十万の日系ブラジル人が暮らしているが、文化の違いから、あまりにも交流が少ない。宮沢はブラジルでコンサートを行うたびに集まってくれる日系人への感謝、第一回移民で当時98歳だった故・中川トミさんとの出会いによって、'08年、ブラジル移民100周年を祝うコンサートツアーを行う決意をする。共にしたのは、ワールドツアーを回ったときの多国籍なメンバー。「GANGA ZUMBA」と命名し、正式なバンドとなった。