山﨑賢人は“日本の夏”を象徴する存在だ 『キングダム』シリーズにおける“成長”を振り返る
信の“精神的な成長”にシンクロする俳優・山﨑賢人の成長
信は野生的で好戦的で快活な人物だが、特別に「個性的」というわけではない。いかにもマンガのキャラクター然とした王騎や龐煖、あるいは羌瘣(清野菜名)らのほうが個性は強いといえると思う。このキャラクターたちを自らの声と身体とで体現してみせる俳優陣に私たちが圧倒されるように、信が気圧されてもおかしくはないだろう。筆者はネガティブな意味合いでしか使わないのだが、“主役を食う”ということが起きて当然の構図ができあがっているのである。 しかし、そうはならないのだ。これはもちろん、俳優(キャラクター)同士のかけ合いによって、やはり信が特別な存在として持ち上げられているというのがひとつある。個々の俳優の力量ではなく、座組全体があくまでもこれは“信の物語”であることを認識しているからだろう。そしてもうひとつ。それは他の誰かが舵を取って変えた物語の流れを、信が映し出されたその刹那、たちまち山﨑が舵を取り戻してしまうところにある。 かといってもちろん山﨑は、信のキャラクターを無理に主張したりなどはしない。物語の流れや、周囲のキャラクターのやり取りから渡ってきたバトンを正確に受け取り、変にブレたり力んだり緩んだりすることなく、じつに自然なかたちで次なる展開へとつなげている。『キングダム』のシリーズがはじまったばかりの頃とは大きく変わったように感じているのは筆者だけではないだろう。演じるうえでの力加減が、どのシーンを切り取ってもベスト。押すところは押し、引くところは引いている。信の精神的な成長にシンクロするように、俳優・山﨑賢人もやはり成長を続けているのだ。 こんなのは当たり前のことかもしれないが、“シリーズもの”を鑑賞し続ける醍醐味は、こういったところにこそあるだろう。それに成長というものは、誰もが続けられるものでもないのだから。彼が座長として率いているのは『キングダム』の制作に携わる人々だけではない。『キングダム』に触れるすべての者たちなのである。
折田侑駿