「大学無償化」への批判が的を射ていない真実 お金だけでは得られない豊かさに目を向ける
働く人たちが力を持てるようになれば、定時に帰り、家族とともに食事をするという当たり前の自由もまた、戻ってくるはずです。 想像してみてください。仕事を終えて、家族と買い物に出かける、いっしょに夕食を作り食べることができる、そんな普通の社会のことを。 24時間やっているお店なんていらなくなります。人間を深夜まで働かせることのない社会は、ムダな電力やプラスチックの容器を必要としない社会でもあります。 毎晩、家族と過ごし、子どもやパートナーのその日のできごとを聞き、語りあえるようになれば、週末は自分の時間を持てるようになるでしょう。
平日の穴うめのように子どもに付きあう必要はありません。地域の活動や政治的なイベント、さまざまな実践と対話の場に参加することだってできるようになるはずです。 僕は、そんなに難しいことを言っているでしょうか? 家族との食事の時間は、ローマ時代の奴隷にさえ認められた自由です。その当たり前の権利を、当たり前に受け取れる社会を作ろう、そう言いたいだけです。 みなさん、そろそろ本気で発想を変えませんか?
ずっと昔、日本人のことをあざけり、エコノミックアニマルと呼んだ人たちがいました。 こういう品性に欠ける言いかたは論外ですが、ただ、私たちほど経済に縛られて生きている社会はない、という指摘は一片の真理をふくんでいます。 ■「経済に依存した社会」から抜けだそう 「国際社会調査プログラム」のなかに、「医療制度・教育・治安・環境・移民問題・経済・テロ対策・貧困」について「今の日本で最も重要な問題は何だと思いますか」という質問があります。
日本では58.1%、全体のほぼ6割が「経済」と答えています。調査した34の国・地域のなかでダントツの1位です。 確かにお金があれば生きる・暮らすために必要なサービスを市場から買うことができるようになります。ですが、経済はすっかり弱ってしまい、生きること、暮らすことの不安は以前と比較にならないほど強まってしまいました。 もう、いい加減に、《経済に依存した社会》から抜けだすべきなのです。 ではそのときの対抗軸はなんでしょう。それは《共にある》という視点です。
共にある、と言われると、なんとなく人間を縛りつけるような、自分らしさを押し殺して、まわりにあわせなければいけないような印象を受けるかもしれません。 でも、そうではありません。むしろ人間の「自由の条件」を整えたいからこそ、この共にあるという言葉の意味について私たちは考えなければならないと思うのです。
井手 英策 :慶應義塾大学経済学部教授