「峠の釜めし」は、なぜ人気になったのか?
【ライター望月の駅弁膝栗毛】 「駅弁」食べ歩き20年・5000個の放送作家・ライター望月が、自分の足で現地へ足を運びながら名作・新作合わせて、「いま味わうべき駅弁」をご紹介します。 【写真全10枚】髙見澤みねじ(右)・田中トモミ(左)姉妹(画像提供:株式会社荻野屋)
昔、駅弁が売れた駅の1つに、「機関車の連結がある駅」というものがありました。とくに蒸気機関車の時代は、峠越えの前に補助機関車を連結するため、停車時間が長くなり、駅弁がよく売れたわけです。碓氷峠の麓にある信越本線・横川駅も、その1つですが、歴史を紐解くと、「峠の釜めし」という大ヒット駅弁に恵まれるまでには、さまざまな苦悩と努力があったといいます。
「駅弁屋さんの厨房ですよ!」第48弾・荻野屋編(第3回/全6回)
1kmの間にビル20階相当を登る「66.7パーミル」という急勾配が立ちはだかってきた信越本線の碓氷峠。峠越えを前に補助機関車の連結・解結が行われたのが横川駅でした。この補助機関車の拠点だった横川機関区の跡は、いま「碓氷峠鉄道文化むら」として、ゆかりのある車両が数多く保存されているほか、「峠のシェルパ」と呼ばれたEF63形電気機関車の運転体験(講習受講が必要)ができることでも知られています。
横川駅でこの補助機関車を連結する「4分」の停車時間に販売されて人気を博してきた名物駅弁「峠の釜めし」。この駅弁を開発したのが、荻野屋4代目の髙見澤みねじ社長でした。現在の6代目・髙見澤志和社長は、お客様に対してとても真摯な人だった、家で遊んでいるときでもお客様に迷惑をかけるようなことがあると、厳しく叱られた記憶があると話します。今回はそんなお祖母様のエピソードと釜めしの誕生秘話を伺いました。
●「峠の釜めし」を生んだ、髙見澤みねじ・田中トモミ姉妹!
―4代目の髙見澤みねじ社長は、どのような方でしたか? 髙見澤:山梨・丹波山村出身で大妻女子大学の前身となる学校を出て、栄養士の資格を持っていました。晩年は寝たきりのことも多かったですが、(孫ということもあって)私自身は優しくしてもらったものです。3代目が若くして亡くなり、4代目として社長に就任したのですが、幼いころから体が弱かったこともあり、東京で体育教師をしていた妹の田中トモミが来て、一緒に経営を担うことになったんです。 ―当時の荻野屋は、経営が厳しかったそうですが、なぜですか? 髙見澤:高崎と軽井沢という大きな駅に挟まれていたのが1つの理由です。当時の弁当は、幕の内弁当など普通弁当ばかりで、(他の駅と)あまり変わり映えがしなかったこともあります。横川の停車時間に(主に団体客向けに)積み込む弁当も、他の業者のものが用命されることすらあったといいます。加えて、戦前は旅館利用者も多かったのですが、戦後は人の流れが変わってしまい、旅館業も厳しくなってしまっていました。