「峠の釜めし」は、なぜ人気になったのか?
●「温かい家庭的な弁当」を作りたい!
―なぜ、「峠の釜めし」を開発することになりましたか? 髙見澤:みねじが社長に就任して帳簿を確認すると、経営的に非常に厳しいことがわかったんです。そこで「売れる弁当(お客様が受け入れて下さる弁当)」を作ろうとなりました。まず、駅を利用されるお客様に、実際にどんな弁当を食べたいか、毎日聞いて回ったといいます。これでわかったのが「冷たい弁当は飽きた」ということ、そして「温かい家庭的な弁当を食べたい」という声が、1つの大きなヒントになったといいます。 ―なぜ、益子焼の釜になったんですか? 髙見澤:開発のヒントになったのは「土産になる」という要素でした。やはり、旅ですから、土産は重要です。女性のみねじは、陶器などの小物が好きな一面もありました。そんな折、栃木・益子の業者が、弊社に益子焼の営業に来たんです。当時から弊社ではそば店をやっていたので、益子焼の蕎麦猪口などを扱っていました。その業者がたまたま売れ残りの釜型の容器を持っていたことから、「釜めし」というヒントが生まれました。
●文芸春秋のコラムから人気に火が点いた「峠の釜めし」!
―昭和33(1958)年2月1日というタイミングで、「峠の釜めし」が発売された理由は? 髙見澤:国鉄高崎鉄道管理局(当時)の販売許可が下りたのが、この日だったようです。じつは数年前に開発されていて、先行販売もしていたのですが、容器の重さや価格の高さがネックになって、なかなか許可が下りませんでした。当時、幕の内弁当が80円でしたから120円はかなり高い弁当だったんです。でも、弊社の努力を見ていた横川駅長さんも、高崎局に掛け合って下さったこともあり、正式に発売にこぎつけることができました。 ―発売後のお客様の反響はいかがでしたか? 髙見澤:直後はあまり売れなかったといいます。しかし、その年の8月、文芸春秋のコラムで「峠の釜めし」が取り上げられたことがきっかけで人気に火が点きました。売れ始めたのも、上野から来る下り列車からなんです。売り子さんも事情がよくわからず、「やけに今日は下り列車で釜めしが売れるなぁ」といった感想を持ったといいます。秋には富山国体へ行幸された昭和天皇が、御用列車で「峠の釜めし」をお召し上がりになりました。