「読売の渡辺だ」深夜のスポニチ直電事件 FA導入巡るNPBの姿勢に不満爆発 持論展開20分
◇渡辺恒雄氏死去 その夜、私は社内で電話番を命じられていた。1992年12月1日午後11時。編集局の電話が鳴った。 「渡辺だが」 「はあ?どこの渡辺さん?」 「読売の渡辺だ」。怒っていた。 この日は日本プロ野球選手会(当時岡田彰布会長=阪神)が臨時大会を開き、FA制導入を改めて日本野球機構(NPB)側に強く要求。実現しない場合はストライキも辞さないという構えを示していた。NPBは1軍半クラスの導入に限ってFA制を認めるという姿勢だった。それに不満を爆発させたのだ。スポニチへの電話で。 「テレビのニュースを見てだな、腹が立って電話したんだ」とまくし立てる。「各社に電話されているんですか?」と聞くと「(スポーツ)報知とスポニチだけだ。報知は(読売新聞社系で)しようがない。スポニチは一番部数が多いからな」 あとは質問する間もなく、持論を述べていたのを思い出す。「FA制を認めないのは憲法および独占禁止法に違反する。私はストライキを支持する!」と断言した。 渡辺氏はFA制採用、ドラフト制を廃止しての完全自由競争などを主張していた。規制を緩和して、それぞれ企業努力をすることで全体が発展する、という信念があった。「ドラフト制を維持するなら米国並みに(全面)FA制を採用すべき。それがダメなら新日本リーグをつくる。中途半端なことでごまかそうという根性が気に入らん!」 当時の巨人は人気、知名度、資金力全てにおいて他球団とは比較にならなかった。渡辺氏の持論が実現すれば補強において巨人に圧倒的に有利になるというのも事実だった。93年にFA制、ドラフトの「逆指名制度」が採用され、その後、ルールの変遷を重ね、現在に至る。巨人という球団のみならず、球界全体の大きな流れをつくった一人が渡辺氏だった。 当時、渡辺氏の自宅前には深夜に帰宅する渡辺氏を待つスポーツ記者が多く集まった。プロ野球担当記者だけでなくサッカー担当記者も集まり小競り合いが起こったこともある。それだけ渡辺氏の言動は報じる価値があったということだった。 スポニチへの電話は約20分。労せずして大ネタが飛び込んできた我々は2日付1面で報じた。(スポニチ東京本社代表・田村智雄)