ノーベル平和賞の被団協、いつ、なぜできた?被爆者の歩みから歴史をたどる
広島と長崎に投下した原爆の被害者による全国組織「日本被団協」がノーベル平和賞に選ばれた。原爆関連のニュースが増える毎年夏ごろ、特によく耳にする団体名だ。正式名称は日本原水爆被害者団体協議会。歴史的とも言える受賞を契機に、改めてどんな組織なのか、被爆者たちのこれまでの活動とともに紹介したい。 【写真】ゲンから感じた悔しさ、歌手の加藤登紀子さん「戦争の記憶を受け継ぎ語っていく」 歴史を確かめなければ同じ道を歩む
まずは、被団協の初代代表委員で「反核の父」と称される故森滝市郎さんの半生をたどる。広島市の平和記念公園にある原爆死没者慰霊碑を背に、座り込みを続けた人だ。彼の歩みこそが、被団協の歴史そのものと言えるからだ。(共同通信=下道佳織、齋藤由季花、兼次亜衣子) ※音声でも解説しています。「共同通信Podcast」でお聴きください。 ▽44歳で被爆した「反核の父」 広島に原爆が投下されたのは1945年8月6日。広島高等師範学校(現広島大)教授で44歳だった森滝さんは、爆心地から約4キロで被爆した。右目を失明し、残った左目に折り重なる遺体など悲惨な光景を焼き付けた。哲学者だった森滝さんは、自身の体験から核の時代を考えるようになった。 次女春子さん(85)には忘れられない思い出がある。被爆から数年後、幼かった春子さんは、遊んでいた爆心地近くの川で、赤ちゃんの頭蓋骨を拾った。持ち帰って森滝さんに手渡すと、お骨をささげるように持ち、大声で泣いた。森滝さんの活動は、原爆孤児の支援から始まった。 ▽初代代表委員の一人に就任
森滝さんは1955年8月に広島で開かれた第1回原水爆禁止世界大会で事務局長を務めた。被団協設立のため全国を駆け回り、1956年8月の結成で初代代表委員の一人に就任。仲間の被爆者と共に、国内外で被爆体験を証言した。核実験やウラン採掘で被ばくした世界の核被害者にも思いを寄せ「核絶対否定」を貫いた。 核実験には徹底的に抗議し、広島大教授を辞す覚悟で1962年から慰霊碑前での座り込みを始めた。「精神的原子の連鎖反応が、物質的原子の連鎖反応に勝たねばならぬ」「不当に命を奪われ、声を上げられない人たちの思いを背負っている」。回数は500回以上に及んだ。 森滝さんは胃がんを患い、94年1月25日に92歳で死去する。その数日前、病室で森滝さんは「春子、今日は行かねばならんだろう」と言った。「どこに?」と聞くと、「座り込みじゃがのー」と答えた。自らも反核団体の共同代表を務める春子さんは「わが父ながら本当にこの人は…。よく『親を継いで』と言われるが、まねできない」と感嘆する。 ▽「浮かれるな、今からだ」