「アニソンは世界を超える」…高橋洋子が「残酷な天使のテーゼ」で“発売当時のまま”の歌唱を続ける理由
介護業務に従事した5年間
その後もコンスタントにCDシングルやアルバムを制作、発売。ラジオのレギュラー番組も持っていたが、「やはりそんなに売れなかった。でも周りの皆さんは、私を上げ底してイメージを整えてくれるように接してくれた。ちょうどその頃、子どもも生まれたんですが、スーパーに行っても誰にも気付かれない。そんな自分なのに、スタッフたちが整えてくれる環境とのギャップが苦しくなってしまって」と、音楽業界から身を引くことを決意する。 当時、世話になっていた日音の村上司社長に相談したところ「洋子ちゃんが羨ましいよ。思ったことを貫けるのは素敵だから、これからも応援するよ」と言ってくれた。 「自分の我が儘でしたが、ちょうど夫がその頃、働けなくなっていたし、子どもも2歳だったので、私が働かないと、と、ガソリンスタンドにあったドトールコーヒーの仕事と、介護のデイサービスを掛け持ちして働き始めました」 世話になった人からの依頼で断れないイベントやコーラスの仕事などは受けていたが、主婦業と介護業に従事する期間はおおよそ5年も続いた。 「等身大の自分、親としての姿、自分で生きていく姿を子どもに見せたかった」という思いが、この頃の自身を支えていたが、再び音楽業界に戻るきっかけをくれたのも、介護の世界だった。 「デイサービスは音楽にあふれているんです。ピアノで伴奏や弾き語りをすることもあるし。その中で音楽療法にも興味を持ち、洗足学園で聴講生として単位を取ったんです」 認知症を患う人たちの対応をすることも多いデイサービスに従事しながら、「そういう方でも幼少の頃の記憶はあって、童謡や唱歌をソラで歌える。皆さんを飽きさせないように歌いながら、体を動かしながら、機能向上も図るための一つのショーを完成させるような作業。これって究極のライブじゃんと気付いた」 それまで何年もしゃべったことのなかった男性が「釜山港へ帰れ」を歌い、音楽療法で認知症の人々の昔の記憶にアプローチする……。そうした体験を続けることで、「音楽の力やすばらしさを再確認した」。 それとともに自らが音楽を離れたきっかけを振り返り、「あれが嫌だとかこれは間違っているとか、そんなことばかり言うような自分ではいけない。たった一人でも歌ってと言ってくれる人がいるなら、ありがとうと言って素直に歌えばいいじゃないか」と思い直したという。2005年のことだ。