自腹を切るのは当たり前…「地獄のビルマ」から帰還した日本軍兵士たちが、トラウマ残る「かつての戦場」に再び戻りたがったワケ
「戦友会」と聞いてピンとくる人は、どれだけいるだろう? 慰霊や親睦のために作られた元将兵の集まりだが、その「お世話係」として参加し、戦場体験の聞きとりをつづけてきたビルマ戦研究者がいる。それが遠藤美幸さんだ。 【写真】日本軍兵士が「死んだら靖国神社には行きたくない」と懇願した理由 家族でないから話せること、普段は見せない元兵士たちの顔がそこにある。『悼むひと 元兵士と家族をめぐるオーラル・ヒストリー』(生きのびるブックス)から、その一端をご紹介したい。世界中がキナ臭い今、戦争に翻弄された彼らの体験は何を教えてくれるのか。 本記事は、『悼むひと 元兵士と家族をめぐるオーラル・ヒストリー』(生きのびるブックス)を抜粋・再編集したものです。
死んだ戦友のためなら
「地獄のビルマ」から生還した元日本兵士らは、戦後、戦友会を作り、ビルマでの遺骨収集や慰霊活動に熱心だった。戦友会には、同じ釡の飯を食い、共に寝、共に暮らし、同じ戦場で苦楽を共にして戦い抜いた強固な絆、いわゆる「戦友愛」がある。この戦友愛によって彼らは戦時中だけでなく戦後も結束し行動を共にした。 凄絶な戦場体験を持つ戦友同士はまさにぬきさしならない関係で、時と場合に依っては親兄弟、妻子よりも優先順位が高くなる。娘の大学進学の費用をビルマ戦の戦没者慰霊碑の建立費に充てた元兵士もいた。「部下の骨を拾うことは家族の事より大事」と言い切った元大尉もいた。恩給では足らずに家を担保に借金までして慰霊活動に身を投じた元軍曹もいた。親族は堪ったもんじゃないが、この手の話はいくらでもある。 さて、ここで重要なのは、戦友愛というのは生き残った戦友同士よりむしろ死んだ戦友へ思い(愛)の方が強いことだ。元兵士が戦友会を作った最大の目的は、死んだ戦友の骨を拾うこと、そして戦没者の慰霊に尽きる。 戦友会の結成の全盛期は1965年から69年頃である。戦後20年が経ち、生活も安定した中年期に差し掛かった元兵士らは、死んだ戦友のために遣り残したことをやろうと戦友会を作った。戦友愛で結束した任意団体である戦友会を作るのに許可も手続きも必要ない。必要なのは戦友愛だけである。その数は数千ともいわれているのだが……じつは正確な数は誰もわからない(*1)。 ビルマ戦域(ビルマ・インド・タイ・中国雲南省)の戦友会もこの時期に全国各所(関東・関西・四国・北九州)で雨後の筍のごとくうまれ、戦後30年(1970年代)から50年(1990年代)を節目に慰霊碑や墓碑を建てている。そして戦場に残してきた戦友の遺骨を祖国に持ち帰ることが生きて帰ってきた戦友と遺族の最大のミッションとなった。 1952年から1971年まで政府(当時の厚生省)は30回にわたり遺骨収集を実施するが、広大な戦域にわたる240万余もの海外戦没者の遺骨収集は困難を極める事業であった。これはビルマ戦域にも当てはまる(*2)。 1971年10月、政府から遺骨収集の打ち切り案が浮上すると各戦友会や日本遺族会の猛反対に遭う。そんな矢先の1972年2月、残留日本兵の横井庄一さんがグアム島のジャングルから奇蹟の生還を果たした。横井ブームで遺骨収集の世論が再燃し、打ち切り論はいつのまにか立ち消えた。1973年から3年を目途に政府は可能な全戦域への遺骨収集団の派遣を決めたが、その対象地域にビルマ、インド、中国雲南が含まれていなかった。1973年7月、ビルマ戦友会の全国組織の「全ビルマ戦友団体連絡協議会」が結成され、政府にビルマ、インド、中国雲南の遺骨収集の政府調査派遣団の実現を強く求めた。その甲斐あってか、1974年1月に第一次ビルマ方面戦没者遺骨収集政府派遣団(政府職員10名、戦友90名、遺族25名、青年団15名)が派遣された。 その後、第二次(1976年1月)、第三次(1977年3月)と三度派遣された。団員の主力はかつての兵士らが占め、参加者の費用の三分の二は政府が負担した(*3)。元兵士らは死んだ戦友のためなら自腹を切るのは当たり前、どんなことでもする勢いで遺骨収集に臨んだ。