自腹を切るのは当たり前…「地獄のビルマ」から帰還した日本軍兵士たちが、トラウマ残る「かつての戦場」に再び戻りたがったワケ
すべてが焼失
1945年のビルマ戦線は崩壊し、総じて敗走戦であった。英印軍は当時最大級の米製のM4中戦車を先頭に日本軍の後方兵站基地のメークテーラにとどめを刺すために前進中であった。1945年3月8日、第49師団第168連隊第1大隊は、大砲2門と兵隊約300名(森本隊歩兵200名と中村隊砲兵100名)をもって、大挙する英印軍と戦車30両をウェトレット村付近で迎え撃った。圧倒的な兵力と物量の差はいかんせん……。敵戦車に爆弾を抱いて突っ込む肉弾戦が随所で行われ、旧マンダレー街道は日本兵士の肉片と血の海と化した。そのような戦闘の中に中村隊長(当時25歳)もいた。 戦闘の朝、見張りの神岡小隊長が中村隊長の所に飛んで来て叫んだ。 「隊長! 敵の戦車が来ました」 中村隊長は早速山砲1門を指揮する芳賀小隊長と打ち合わせて敵戦車を撃ち取る最新兵器の「タ弾(対戦車用炸裂弾)」を用意した。英印軍は戦車を先頭に進軍し、森に隠れて待機している中村隊長の前の道路をゆっくりと警戒しながら通過した。中村隊長は部下に先頭の戦車の攻撃を指示し、目前で停止した9両目のM4中戦車のキャタピラにタ弾を撃ち込んだ。中村さんは「武器兵力劣勢の日本軍が巨大な『M4』に唯一対抗できたのは、『タ弾』という新兵器があったからだ」と誇らしげに語る。タ弾は、火力が強く、分厚い鉄板の戦車に穴をあけることができた。1944年にドイツから技術を学び、小倉(北九州市)の兵器工場で製造した。ビルマ戦線でタ弾を使用できたのは45年初頭からであった。ビルマ戦では最後に編成された第49師団(狼兵団、1944年5月編成)しかタ弾を装備できなかったと中村さんはいう。中村隊長は「タ弾を持っていたことが心の支えになった。鉄砲弾はまったく問題にならなかった」と語った。 3月8日の午前11時から午後5時まで日英両軍の激戦は続いた。戦場となったウェトレット村はパゴダも、高床式の住居も、倉庫も、荷を運ぶ牛も鶏も作物もすべて焼失した(事前に村民は避難していた)。ウエモンによると、マンダレー街道沿いの戦闘で負けたことがない英印軍は、予想だにしない損害を被り慌てている様子だった。日本軍側の犠牲も甚大だ。中村隊の小隊長以下19名と歩兵の森本中隊の将兵31名の50名が戦死した。 * * * (*1)戦友会研究会『戦友会研究ノート』青弓社、2012年、70頁。 (*2)1954年に日本とビルマが平和条約を締結し日本の賠償協定が成立したことで、1956年2月6日から3月15日まで「ビルマ・インド戦没者遺骨収集団」が南部ラングーン、北西部のインド国境近くのティティム、東部のラシオ、ナンカンなどで1351柱の遺骨を収容したが、その後ビルマ側の事情で遺骨収集は実施できなかった(栗原俊雄『遺骨』岩波新書、2015年、185頁)。 (*3)全ビルマ戦友団体連絡協議会刊行、『勇士はここに眠れるか』(1980年)には、全国のビルマ関係の戦友会(203団体)が遺骨収集のために1致団結する過程(40~48頁)と、ビルマ、インド、タイの各戦域における「収骨のあらまし」が詳細に記載されている(89~416頁)。中国雲南省では遺骨収集と慰霊は現在においても許可されていない。 (*4)メークテーラはビルマ語の発音ではメイッティーラ、ウェトレット村はウェッレッ村となるが、ここでは当時の旧日本軍の呼称を使用する。 (*5)この証言は私が2016年3月8日の慰霊祭に参加した際にウエモンから聞いた。帰国後、中村さんに話したところ中村さんはそのことを思い出し、大変感激していた。 (*6)2019年5月9日に、中村清一さんは戦友の眠る地に旅立たれた。100歳目前であった。 * * * さらに、本連載では貴重な証言にもとづく戦争の実態を紹介していく。
遠藤 美幸(ビルマ戦史研究者)