元うたのおねえさん・小野あつこ 沖縄の祖母が「戦争は怖い」以上のことを語らなかった理由 子どもたちにつなぐ思い #戦争の記憶
飛行機工場の爆撃で亡くなった祖母の兄
小野さんは小学校の夏休みに、祖父母や家族と一緒に戦没者の慰霊碑を訪れたことがあるという。 「平和祈念公園に、平和の礎(いしじ)という、戦争で亡くなられた方の名前が石碑に刻まれている場所があって、そこに祖母の兄と祖母の父の名前を探しに行きました。その日はすごく暑くて、石碑にお水をかけて拭いてきれいにして、みんなで手を合わせたのを覚えています。
叔母から聞いた話なのですが、石碑に名前が刻まれていた祖母の兄は、兵庫県の飛行機工場に就職して働いていたそうです。戦時中にその飛行機工場が爆撃にあって亡くなったそうなのですが、あとから桐の箱が送られてきて、中には小さな石が入っていたと。おそらくお骨が見つからなかったから、その場所にあった石を入れたのかなと家族で話していたとのことでした。 祖母は10代で戦争を経験しています。ただ、戦時中の話は家族にもほとんどしていなくて。そんな祖母が自分の兄への思いは強く、その石だけではやはり納得がいかないと言っていたそうです。祖母は年老いた母親が元気なうちにお線香をあげに行きたいと、飛行機工場があった場所を調べて兵庫県を訪れたそうです。今から33年前のことだと聞いています」
祖母が口を閉ざしていた理由
小野さんの祖父母が暮らしていた金武町では、1971 年に日露戦争から太平洋戦争までに戦没した住民の名前を刻んだ「芳魂(ほうこん)の塔」という慰霊碑が建てられ、毎年6月に慰霊祭が執り行われている。今から約20年前には、地元の遺族会が中心となって、金武町の住民が戦争でどのような体験をし、どのように亡くなったのかを記した『芳魂』という本が刊行された。
「叔母が見せてくれた本の中に、祖母の兄や祖母の父のことも書かれていました。祖母の父が亡くなった経緯については、『家宅捜索に来た米軍によって日本兵と間違えられ、被弾による死亡』と書かれていて…。米軍が民家に立ち入って、家のなかに敗残兵や武器があるかを確認するために『家宅捜索』をしていた写真も載っていたのですが、その写真をよく見ると、住民の方が家から追い出されて立たされているんです。