「この声でやらせろ」小倉智昭が亡くなる直前に明かした「HOWマッチ」ナレーション誕生秘話
アナウンサーの小倉智昭さんが12月9日、膀胱がんのため亡くなった。77歳だった。小倉さんは、亡くなる1カ月半前の10月24日、文藝春秋のインタビューに応じ、師と仰ぐ大橋巨泉さん(1934~2016)について語っていた。 【画像】10月24日のインタビューではとても元気な笑顔を見せていた小倉智昭氏 ◆◆◆
「小倉君が食べてるその弁当、何?」
僕が巨泉さんと知り合ったのは、20代の頃。当時僕は東京12チャンネル(現在のテレビ東京)のアナウンサーで、競馬中継を担当していました。巨泉さんはニッポン放送で競馬の番組を持っていたので中継室で見かけていましたが、オーラを放っていて、声をかけられる雰囲気ではなかった。ある時、巨泉さんのほうから「小倉君が食べてるその弁当、何?」と話しかけられ、一介のアナウンサーにすぎなかった僕を知っていたことに驚いたんです。その後、「ニッポン放送で番組をやる気はないか」と誘われた。退社し、巨泉さんの事務所でお世話になったのですが、仕事に厳しい人だから、自分の事務所のタレントをバーターで使ったりしない。仕事をもらえるものだと甘く考えていたので、しばらくは生活が苦しかったですね。 でも、結果的には巨泉さんが助けてくれた。昭和58(1983)年に始まった巨泉さんの番組「世界まるごとHOWマッチ」のナレーターに起用され、甲高い声で面白おかしく話したら、スタジオは大ウケ。「この声でやらせろ」という巨泉さんの指示で、録りためてあったものを録音し直した。そして、僕のナレーションが流れると、巨泉さんは何度も「また小倉のバカが」とボヤく。その後、僕の仕事が増えたのは、巨泉さんが名前を連呼して知名度を上げてくれたおかげなんです。 巨泉さんは何事も掘り下げて勉強する貪欲な人。メジャーリーグやアメフトなどのスポーツから政治まで何でも詳しかった。ジャズ評論家から放送作家に転身し、作家として携わっていた深夜番組「11PM」に出演することになったのも、情報への感度が高く、先を読む能力に長けていたから。まだ海外の番組の放送などなかった時代に、巨泉さんは自宅に大きなパラボラアンテナをつけて衛星放送で世界の番組をチェックしていたんですよ。だからこそ、日本のテレビの枠にとらわれない発想が生まれたのでしょう。