長谷部誠24~26歳「結局は自分次第。社会のせいにするなよと」「マガト監督のサッカー観には…」ドイツ挑戦で“まだ青い”けど芽生えた主将の資質
日本代表、そしてドイツ・ブンデスリーガでもレジェンドとなった長谷部誠。40歳で引退した彼はドイツに渡った直後の20代中盤に、どんな言葉を残していたか? 雑誌「Sports Graphic Number」「NumberWeb」掲載記事から紹介します。 【秘蔵写真】「あの長谷部が泣き崩れた…」ピッチに入ってきた娘&息子との感動的ハグ。19歳の“茶髪ロン毛時代”→ドイツ語ペラペラでレジェンドになるまで…長谷部誠の軌跡を写真で見る <名言1> 今からでも代表選手全員を僕が海外に連れて行きたいくらい。 (長谷部誠/Number732号 2009年7月2日発売) ◇解説◇ 長谷部は2002年、藤枝東高校から浦和レッズに加入。1年目はハンス・オフト監督の方針でチームに同行しながらプレータイムが与えられない時期が続いたものの、それを反骨心に変えて2年目以降に飛躍。2006年のJ1優勝、07年のACL制覇、05・06年の天皇杯連覇などチームのタイトル獲得に貢献した。 そして08年1月にブンデスリーガのボルフスブルクに移籍。ここから長きにわたるドイツ生活が始まった。 24歳になるシーズンでドイツに渡った長谷部を待ち受けていたのは、「岩のようなヤツら」による強烈なボディコンタクトだった。 しかし「勝てずとも、負けなければ、強い気持ちをかぶせていけば、技術を活かすことができる」と精神力の重要性を再認識したという。「気持ちの部分をもっともっと日本のサッカー選手は変えていかないと」と、ドイツに適応したからこその熱いメッセージを送っていた。
結局は自分次第。社会のせいにするなよって
<名言2> 選手がエゴや個性をぶつけ合わないチームは強くなれない。 (長谷部誠/Number755・756・757号 2010年6月3日発売) ◇解説◇ 長谷部は2006年のジーコジャパン初招集から、イビチャ・オシム、岡田武史、アルベルト・ザッケローニ、ハビエル・アギーレ、ヴァイッド・ハリルホジッチ、西野朗と数々の日本代表監督から招集を受けてきた。 そんな彼がレギュラーの地位を固めつつあったのは岡田監督体制の時期で、ドイツ移籍を果たしてクラブでも代表でもキャリアアップの真っただ中にあったと言える。 長谷部は南アフリカW杯を前にした26歳時、「ひとつの方向に向かってまとまる日本の力は素晴らしい」と日本の結束力を認めながらも……個人が主張することの重要性を、こうも説いていた。 「日本は社会的にそういう人間が育ちにくいと言われるけど、そうは思わない。結局は自分次第だから。社会のせいにするなよって思う」 まだ20代らしい青さがありながらも、長谷部らしさがあふれている。 そのパーソナリティーを観察していた岡田監督は南アフリカW杯直前、長谷部にキャプテンを託した。大会直前の芳しくない成績によって沸き起こった不安の声を打ち消すかのように長谷部らは奮闘。日本代表は自国開催以外で初となる決勝トーナメント進出を果たすことになった。
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