“学連”なのに大人のエゴで学生が悲鳴! “パワハラ疑惑”“ガバナンスの欠如”をスポーツ庁も問題視【関東学生ゴルフ連盟に激震・上】
大学ゴルフの注目度低下に伴い学生の自治が失われる
マスターズ王者・松山英樹(東北福祉大出身)ら多くの名選手を輩出した関東学生ゴルフ連盟(以下、関東学連)が激震に見舞われています。長い間対立関係にあった連盟の上層部(学生ではなく社会人)と一部の監督の関係がさらに悪化。その影響が連盟の主役であるはずの学生たちを直撃しています。 【写真】バレたら“永久追放”!? これがマスターズで“持ち込み厳禁”の品目です 学連の全国組織である日本学生ゴルフ連盟(以下、日本学連)は関東学連に対し、10月14日に事態の収拾に向ける動きがみられなかった場合には主要大会における出場枠を15人ずつ減らし、それを他の連盟に振り分けると通達。しかし、関東学連側は期限を守ることができず、そのまま事態が悪化する中、パワハラ疑惑も発生し、事態は泥沼化の一途をたどっているのです。
※ ※ ※ この騒動を理解してもらうには、関東学連のそもそもの成り立ちから説明しなければなりません。 学生ゴルフ連盟は、その名の通り学生が運営する任意団体です。歴史を振り返れば、学生主導で運営されてきました。1974年から、日本学生選手権を4連覇して日本のツアーでは永久シード選手でもある倉本昌弘氏(日本ゴルフツアー機構=JGTO副会長、元・日本プロゴルフ協会=PGA会長)は、日大ゴルフ部の全盛時代を築いた一人。日大ゴルフ部に在籍していた当時の学連の状況を倉本氏はこう振り返ります。 「昔は学連の自治をみんなが認めていました。委員長を含め学生たちが率先して全部運営をやっていた。それなりに盛り上がっていたし、注目度も高かった」 ある学連の関係者によれば、バブルの頃のツアー競技では年に50試合近い学生キャディーのアルバイトがあり、それを学連がまとめていたといいます。マグレガーゴルフジャパンの開発部課長の松下健氏も、1984年から4年間、日大ゴルフ部に在籍。関東学連では副委員長も務めた人物です。 「学連とNCAA(全米大学体育協会)と直でやっていた山形杯という大会がありました。それを習志野CC(千葉)でやってたんですよ。成田空港に着いたアメリカ代表に和服を着た女子の代表が花束を渡すのが恒例行事。その役割を、清宮幸太郎(日本ハム)の母親である幸世さんらが務めていたと記憶しています。デービス・ラブ3世vs川岸良兼とか、当時注目のカードも実現したりしていましたが、100%自主運営でやっていたから、運営費が足りないこともしばしば。そういう時にはプログラムを作って、学ランで広告営業もしていました。ゴルフメーカーに行って『1ページ30万でお願いします』とかね。だから学生たちも“プロ意識”が非常に高く、学連は学生の聖域になっていて、社会人の人が入って来られない感じでした」 「サントリーオープンはプロアマも豪華なメンバーが出ていて、映画『ティン・カップ』に出演したケビン・コスナーが来日したときは、ギャラリーが1万人入った時代。1週間で1000人とかの学生アルバイトを使っていました。学連の試合でも、ちゃんとプレスルームを作ってメディアに対応していましたよ」と振り返ります。 しかしその後、単位を取らないと試合に出られないといった大学側の規制が影響し、アルバイトを避ける学生が急増。その結果、プロゴルファーは帯同キャディーを連れてくるようになり、キャリングボード担当やスコアマーカーも経費が少なくて済むボランティアに移行することが増えました。学連への依存度が低下し、トーナメントにおける存在感も薄くなっていきました。選手たちのプロ転向も早まる傾向が進み、テレビやスポーツ新聞などへの露出度も激減し、大学ゴルフ部の注目度も低下。メディアが大会の会場にほとんど訪れないようになると、それと比例するように社会人理事たちが学生の活動に介入するようになっていくのです。 ついには社会人の会長代行と一部の社会人理事が圧政を敷く形態に逆転。上層部と監督たちの“大人のもめごと”の波をかぶった格好だけに、学生たちは規約を改正するための臨時委員会を開き、臨時総会を開く準備作業を急いでいました。