掛布雅之さんはなぜ阪神の監督になれないのですか!? ファンから何度も聞かれたこの質問…答えは1987年3月の『事件』にあった
◇コラム「田所龍一の『虎カルテ』」 2025年最初のコラムである。昨年末には『会長!カワさん奮闘記』と題して元OB会長の川藤幸三氏(75)のミニ連載を掲載した。続きではないが、今年の1発目はその川藤氏に代わって第8代OB会長に就任した掛布雅之氏(69)のことを書いてみようと思う。 ◆川藤幸三氏から笑顔でマイクを手渡される掛布雅之OB会長【写真】 昨年11月30日に新OB会長に就任した掛布氏は、大阪市内のホテルで行われた総会で壇上に立ち、こう抱負を語った。 「来年(2025年)は球団創立90周年という記念すべき年。(OBの皆さんには)もっと球場に足を運んでもらいたい。いい形でゴールテープを切るためには、すべてのタイガースの関係者が同じ方向を向いて戦うことがすごく大切だと思います」 いい言葉である。掛布氏の会長就任はもう何年も前から打診されており「もう1年待って」と言い続けてきたもの。川藤氏が「いつまで、もう1年、もう1年―と言うとるんじゃい。もう待てんわ!」と迫り、ついに掛布氏に「分かりました」と言わせたのだ。 よかった…と思う。だが、一方で「OB会長ではなく、やはり1軍の監督になってほしかった」というのが正直な気持ちだ。よく虎ファンから「なんで掛布さんは監督になれないのですか?」と聞かれ、そのたびにこう答えた。 「現役時代に1度、飲酒運転で捕まったことがある。それを当時の久万俊二郎オーナーが《掛布は欠陥商品》といい、《わたしの目の黒いうちは、絶対に掛布をタイガースの監督にはさせない》と公言したからです」 「事件」を振り返ってみよう。1987年3月、掛布氏は大阪市内で行われた知人の息子の結婚式に出席した。披露宴では多少のお酒も出る。掛布氏は新郎の両親を自宅まで車で送った。その帰りに名神高速道路(西宮インター)の料金所で飲酒運転の取り締まりをしているところで「酒気帯び運転」で現行犯逮捕されたのだ。球団は掛布氏に罰金とシーズン開幕までの自宅謹慎を言い渡した。 掛布氏はお酒が好きだ。けれど車を運転する時には絶対に飲まなかった。この年、お正月に車で安紀子夫人の実家を訪れたときも、「車で来ていますから」とお酒を勧められても1滴も飲まなかった。それなのになぜ…。「このぐらいなら大丈夫」という油断があったのかもしれない。 当時、筆者はなぜ、その知人がお酒を飲んでいる掛布氏に送らせたのか、腹が立って仕方がなかった。掛布氏はじっと自宅で謹慎、反省した。開幕直前に球団からのペナルティーが解けた。すると―。 「掛布のトレードはあり得ますか?」というある記者の質問に久万オーナーが「掛布は欠陥商品です。トレード? 相手球団に失礼でしょう」と答えたのだ。 飲酒運転が大きな罪なのは理解できる。特に電鉄会社では重罪だ。だが、開幕直前にペナルティーがあけた自軍の主砲を《欠陥商品》呼ばわりするのはいかがなものか。当時は久万オーナーの思いやりのない軽率な発言に非難が集中した。 ひょっとしたら、このことがさらに久万オーナーの気持ちを頑ななものにしたのかもしれない。それ以降、球団や電鉄上層部で久万オーナーは「私の目の黒い間は絶対に掛布をタイガースの監督にはさせない」と発言するようになったという。でもまさか、その言葉がそのあと何十年も《呪縛》となって球団や電鉄に残っていたとは…。 翌1988年、掛布は惜しまれながら「引退」した。33歳の早すぎる引退。もちろん、いろんな球団から現役続行のオファーがあったが、すべて断った。「田淵さんとの約束があったからね」と掛布氏は笑った。 田淵幸一氏との《約束》とは―。1978年11月15日の深夜、大阪・梅田の「ホテル阪神」に呼び出された田淵は、西武ライオンズへのトレードを言い渡された。その田淵氏から翌日、掛布氏のところに電話がかかってきた。 「カケ、次はお前だぞ。いいか、お前はオレや江夏のように、違う球団のユニホームを着さされるような選手になるな。約束だぞ」 田淵氏の《別れの言葉》に掛布氏の胸は熱くなったという。1980年4月の巨人戦(後楽園)で掛布氏は左ひざの半月板を損傷した。戦列を離れ、長いリハビリが続いた。その年のオフのこと。あるスポーツ新聞が「掛布、南海へトレード」「相手は門田を中心に複数交換」と報じた。結果は両球団は「事実無根」と発表。某紙の誤報とされたが、本当に両球団が水面下で動いていたかどうかは分からずじまい。うやむやになった。後年、掛布氏に「もし、あの時、トレードを通告されていたら?」と聞いたことがある。 「引退していたよ」 ―まだ、25歳だよ? 「球団の思い通りにさせてたまるか!って思っていたしね。それに田淵さんと約束したから」 他球団のユニホームを着ない。掛布氏にとっては大きなことだったのだ。 話を戻そう。引退した掛布氏は次の就職先を決めかねていた。もちろん、すべての新聞社、テレビ、ラジオ局からのオファーがあった。どの社ともいい関係にあっただけに、どこにすべきか決めかねていたのである。よほど悩んでいたのだろう。ある日、筆者の意見を聞いてきた。 「龍一はどこにすればいいと思う?」 「野球解説は外からプロ野球界を見る勉強の場―という意味もあるけど、将来に向けて人脈を増やす時間やと思う。将来、監督になったとき、阪神OBの《仲良し》ばかりで組閣するのは絶対にアカン」 「なるほど。だから?」 「いまのプロ野球界で優秀な指導者はやはり巨人の元選手。彼らと近づくためにも読売系で解説者をやった方がええと思うよ」 いま、思い返せば、いかに同い年とはいえ《ミスター・タイガース》にえらそうなことを言ったもの。だが、このときは数年間、野球解説者を務めて勉強すれば、きっとタイガースから「監督要請」がある―と、掛布氏も筆者も信じていたのである。 ▼田所龍一(たどころ・りゅういち) 1956(昭和31)年3月6日生まれ、大阪府池田市出身の68歳。大阪芸術大学芸術学部文芸学科卒。79年にサンケイスポーツ入社。同年12月から虎番記者に。85年の「日本一」など10年にわたって担当。その後、産経新聞社運動部長、京都、中部総局長など歴任。産経新聞夕刊で『虎番疾風録』『勇者の物語』『小林繁伝』を執筆。
中日スポーツ