命を突然絶たれた兄は、患者たちの「恩人」だった 大阪・北新地ビル放火殺人 遺志を継いだ妹が、2年たってやっと口に出せた「生きていてほしかった」
▽「あなたに生きていてほしかった」 「1年に一度、事件を忘れないためにご遺族や関係者が集まる場所としてコンサートをしませんか?」。伸子さんの友人の提案から、12月3日、大阪市内のホテルのイベント会場で事件の追悼コンサートが開かれた。友人がピアノを演奏したほか、伸子さんも音響療法で用いられる弦楽器「モノリナ」を奏でた。 会場には犠牲者の人数と同じ26本の花が飾られた。事件は容疑者死亡により、裁判が開かれない。他のご遺族への連絡方法も分からないが、「何年先でも良かったら参加してもらいたい」と願いを込めて開催した。 集まった観客約40人の前に立った伸子さんは、詩を読み上げた。これまで取材にも語ってこなかった弘太郎さんへの思いを綴ったものだ。 〈あなたがいなくなってから 私はいろんな質問を受けました でも言わなかったことがあります 思っていても口に出せなかった言葉です あなたに生きていてほしかった あんなことがなかったらよかった
もっと先にあなたと思い出話をする予定だったから あなたに会いたいです 普通に会いたいです これが私の本当の言葉です〉 「兄ならどうするか」と問い、歩みを止めることなく活動を続けてきた。弘太郎さんはきっと近くで見てくれている。頑張りすぎだと心配しているかもしれない。それでもまだ自分にはやるべきことがあると感じる。「私にできる限りのことをやっていきたい」。伸子さんの詩は次の言葉で締めくくられる。 〈またいつかきっとあなたに会える日まで 私はこちらで私らしく生きます どうかあなたを知る人を空から見守っていてください〉 【取材後記】 私が伸子さんに初めて会ったのは、事件から1年以上がたった今年4月下旬。それ以来、取材や取材ではない時も含め、伸子さんと月1回程度会った。伸子さんはいつも「誰かのためになりたい」と考えており、私はその思いが実る瞬間に、幸運にも立ち会うことができた。伸子さんの涙を見ることはそれまで、ほとんどなかったが、その瞬間の彼女の涙に、これまでの歩みの苦労や思いの強さを感じずにはいられなかった。記事にすることで、改めて伸子さんの気持ちを受け止め、丁寧に伝えたいと思った。
伸子さんの活動には、常に「ご遺族やクリニックの元患者さんにも届くように」という願いがある。今年初めて開いた事件の追悼コンサートを、伸子さんは今後もずっと、年に1回続けていきたいと思っている。「何年後でもいい。いつか『やっと来ることができた』という人が現れるのを待っている」。その思いが今後も少しずつつながっていくように、これからも伴走していきたいと思う。