“小学校を退学”になった黒柳徹子さんに、母が見せた態度とは?
戦後最大のベストセラー『窓ぎわのトットちゃん』の著者であり、芸能界のレジェンド的な存在である黒柳徹子さん。これまでいろいろな人に会ってわかったのが、「世の中の『本物』と言われる人には、必ず根底に深い愛とか優しさがある」ということだそうです。 本稿では、幼少期の黒柳さんが小学校を退学になってしまった経緯、そして新しく通うことになった学校について語ります。 ※本稿は、黒柳徹子著『本物には愛がある』(PHP文庫)から一部抜粋・編集したものです。
今なら「学習障害」と言われるような子どもだった
――どんなお子さんだったんですか? 『窓ぎわのトットちゃん』にも書きましたけど、小学校1年生で退学になるような子ですから、それはもうなんて言いますか、落ち着きがない。自分の興味があったら、そっちに走っていっちゃう。もう大人にとっては手に負えない子どもだと思いますよね。 だからよく学習障害って言われています。LD(Learning Disabilities)って言うんですけど、トットちゃんの本をお読みになった専門家や、学習障害のお子さんをお持ちのお母さん方の中では、黒柳徹子さんはLDだったってお思いのようなんですね。つまり、自分が好きだと、そっちへ行っちゃう。ぜんぜん反省しないっていうね。 ――ご両親は、そんな徹子さんと、どんなふうに向き合われたんですか? 父はね、音楽一筋の人で、音楽しか頭にないというふうで。NHK交響楽団のコンサートマスターをしていました。父は母が大好きでしたから、母と音楽という感じですね。だから子どもは母が全部見ていたんです。
「よその学校にお連れください!」と言われて退学に
私は弟や妹と年が離れておりまして、母は、非常に自由に私を育ててくれたのみならず、人格を認めてくれていたっていうことが、あとになってわかったんですね。 たとえば、初めての学校を退学になった。その理由は『窓ぎわのトットちゃん』に書いたんですけど、授業中なのに、窓のところにいて、外を歩いている人に「おばさん、どこに行くの?」って聞いたりとかですね。でも私、先生の話はちゃんと聞いているんですよ。そこがね、子どものすごいところで。 それから私はなんといっても、チンドン屋さんがすごく好きだったんですね。時代物の格好をしてチンチン・チャンチャカって。 「来たわよー」って言うと、ワーッと窓のところにみんなが来て、私が「お願いします!」って言うとチンチン・チャンチャカやってくれて。 元来、学校のところは静かに通るんです。でも、私が頼むんで。小学校1年生の教室は1階で、窓を開ければ通りに面しているんです。すぐそこなんです。その間、先生はずっと待っていらしたわけですよね、みんながそこから離れるのを。 で、みんながワーッと席に戻っても、私はまだそこに立っているので、どうも先生は「黒柳さん、あなたどうしてそこにいるんですか?」っておっしゃったようなんですね。 そしたら私が、「はい、いまのチンドン屋さんが戻ってくるかもしれないし、また、違う人が来るかもしれないからです」なんて言って、先生としてはね、本当に嫌になっちゃって。そういうことを全部、母におっしゃったみたいなんですよ。 そういういろいろなことがあって、「よその学校にお連れください!」と言われちゃったので、退学になるっていうことに。 で、母がね、普通の学校に入れたのでは、この子は同じような目にあっちゃうと思ったらしくて、それで探してくれて、非常に面白い学校が自由が丘にあった。