50歳で女子校時代の制服を着てみた!子供の頃の「かわゆいママになりたい」という夢は叶えられなかったけれど【住吉美紀】
ひとりでそんなことをしていたら、「アンタ50歳で何してんの」と母。夫は「70歳でも着てみなくてもいいのか」と茶化す。しかし、毎日着ていた制服の記録を、当時はなかったデジタル・クラウドに残せたことで、別れの覚悟が決まったからいいのだ。 一度着てみたのが意外に良かった。神戸でのあの10代の日々の空気感が、一気に蘇ったのだ。毎朝7時12分の電車に乗り、学校のある阪急王子動物園駅の改札外で仲良しの友達と待ち合わせたこと。通学路の六甲山地の麓の坂が、毎日きつかったこと。お昼にねじパンを買うために中庭の売店まで走ったこと。学院祭に向けて友達とバンドを結成したこと。校舎の上のマリア像が涙を流すという噂があって、目を凝らして眺めたこと。
でも、一番蘇るのは、同級生との、何百、何千、いや多分何万時間にも及ぶ「おしゃべり」だ。女子校では異性を気にせず、性別を超えた”飾らない自分”を曝け出し、人間関係もおしゃべりも、驚くほど本性丸出し。休み時間は、男子がいると入りがちな茶々も入らず、御髪を直す必要などもなく、しかも関西弁(神戸弁)で「アホちゃうん」とか言いながら、ポンポンとすごいスピードで、シームレスなおしゃべりが繋がっていく。 「〇〇と言えば、こないだな」と次々と横滑りするように話題が変わり、会話に相当の情報量が凝縮された。言いたいことを歯に衣着せずに言い合い、本当によく笑い、時に傷つけ合い、たくさん泣いた。考えてみれば、この女子校ならではの、毎日の”弾丸おしゃべりトレーニング”が、今の私の基礎を作ったのではないか。 子ども時代の多くを英語圏で過ごした私が、日本語で社会生活を送れる大人になったのは、この時代があってこそ。アナウンサーとしての基盤、それに、今年で丸13年になるラジオパーソナリティとしてのトークの基礎も間違いなく、この制服を着て育成された。 加えて、私には兼ねてから「世の女性たちの味方になりたい、元気の源となるような仕事がしたい」という強い思いがある。これも、思春期に、濃い女の友情やその心強さを強烈に体験したからこそだったのだと気づく。制服に再び袖を通したことで、自分のルーツをひとつ確認した思いだった。 50代からの「思い出」の処し方は、これが大事だと感じる。つまり、懐かしい、にとどまらず、歩んできた道を振り返り、今の在り方を再評価するきっかけにすること。思い出は、50代からの暮らしの原動力となる考察をするための、対話相手になってくれる。 そういう意味で、私に疑問を投げかけてくれた思い出もある。それは、小学校6年生の時の「タイムカプセル」だ。当時流行っていたように思う。小学6年のクラスで、小さな紙の箱を組み立て、思い思いに詰めた。それを、担任のS先生が大切に保管してくださっていて、数十年後のクラス会で持ち主に返してくれたのだ。 手のひらに乗るくらい小さな箱。ワクワクして開けたが、中身は「なぜこんなものを入れたのかまったくわからない」という、呆れるほどのガラクタばかりだった。何処のものかわからない砂、人形用の靴の片方だけ、小さなネズミが付いた洗濯バサミ、「すみよしせい子」と名乗って書いた歌詞みたいな紙切れなど。笑ってしまった。 考える種をくれたものが、一つだけあった。紙箱の外側に、各々が鉛筆で書き込む欄がいくつかあり、その中でも「大きくなったら」という欄に書いてあった自分の言葉。 「かわゆいママになりたい」 そんな風に私は思っていたのか。ショックだった。
住吉 美紀