<tonan前橋>J3落選のチーム あきらめぬ夢
アマチュア選手に引退はない
tonan前橋でプレーするまで、JFLの下に地域リーグや県リーグがあることを知らなかった。サッカーができる環境が当たり前と思っていたころは見えなかったものに、気づかされた思いがした。ここまでの歴史と土台とを作り上げてきた菅原の背中が、とてつもなく大きく見えた。 ピッチの上ではボランチとして攻守の舵を取り、キャプテンとして若手を引っ張り、コーチとして監督の菅原を支え、将来を見すえて指導者ライセンス取得に励み、県内やときには埼玉県内で子どもたちを教える日々で、氏家は前橋の地に骨を埋め、いずれは菅原からバトンを受け継ぐ覚悟を固めている。 「どこかで絶対に(菅原さんと)世代交代をしなきゃいけないし、そのためには自分がもっと勉強して、いままでの経験を伝えられるようにならないと。菅原さんがいままでやってきたことに対して、恩返しがしたい。あの人がいて自分は変わることができたし、新たな夢と目標もできたので」 ともにワールドユースを戦った遠藤保仁や小野伸二、稲本潤一、小笠原満男らとはまったく異なるサッカー人生を、氏家はこう表現する。 「アマチュア選手に引退はないと思っているので。できる限りやりたいですね」
Jリーガーを育てるJ3クラブでいい
JリーグからNGを出された前橋総合運動公園陸上競技場・サッカー場には、ロッカールームや審判団の控室、監督会見室や記者室などが備わっていなかった。 Jリーグの開催実績がある前橋市内の敷島公園サッカー・ラグビー場で申請すれば、承認された可能性は極めて高い。しかし、菅原は最後まで前橋総合運動公園にこだわった。 「敷島は群馬県の持ち物ですから。僕はあくまでも前橋市からJ3に行きたいんです」 菅原の情熱が前橋市をはじめとする行政を突き動かし、スタジアム要件を整備することができれば。チーム数を順次拡大していくJ3へ、早ければ2015年から仲間入りを果たすことができる。tonan前橋にはそれだけの高い評価が、すでにJリーグ内で与えられている。 「カッコいいことを言っていると思われるかもしれないけど、地域に根差し、地域から愛されながらサッカーができるのであれば、僕個人としてはJFLでも関東リーグでもよかった。でも、Jという言葉に対して地域の子どもたちが夢を持つのであれば、ならば羽を広げよう、上を目指そうと」 目標をかなえたとしても、菅原は背伸びをするつもりはない。大風呂敷を広げるつもりもない。tonan前橋が貫くスタンスは、育成に重点を置き、ジュニアユースを創設した1994年から一貫して変わらない。 「Jリーガーを育てるJ3クラブでいいと僕は思っている。ウチからJ2、J1、そして世界へ飛び立ってくれる選手をね。その道筋としてのJ3でいいんじゃないですか。僕がいなくなっても、僕より知恵や情熱のある誰かが絶対に継続してくれる。それが世の中というものですよ。30年後くらいに天国から前橋の街を見て、『おお、tonan、頑張っているな』と思いたいですね(笑)」
たまたま今年、J3と交わらなかっただけ
Jリーグが発足する前から百年構想を謳ってきたtonan前橋にとって、今回届いた「要件未充足」はいわば織り込み済みだったと言っていい。31年前からいま現在、そして未来へと真っすぐに伸びていくtonan前橋のベクトルが、たまたま今年はJ3と交わらなかった、と。 「今年ダメだったからといって、すべてが終わるわけじゃないからね」 菅原は眼鏡の奥で、切れ長の目をさらに細長くして笑った。 (文責・藤江直人/論スポ、アスリートジャーナル)