ウクライナの兵士として戦い、サッカーの現場に戻ってきた記者の壮絶な2年半 ユーロ取材と戦場での悲痛な想い
【戦争の恐怖】 およそひと月後、私はウクライナ内務省に属する国内軍組織、国家親衛隊に入隊した。兵士としての経験を持たない私は、まず訓練のために軍の施設で寝泊まりすることになった。その頃は直接的な戦闘に関与せず、比較的安全なキャンプ地で、余暇にはフットボールを楽しんだ。侵攻前は記者である一方、アマチュア選手を指導するコーチでもあった私は、軍のチームでも指揮を執った。 その後、東部ドンバスでの戦闘に従事する部隊に志願。この地方の一部ドネツクで、シャフタール・ドネツクのホームゲームやユーロ2012での試合を取材した経験を持つ私は、ロシアのプロパガンダ──当地の住民がウクライナではなくロシアの国民になることを望んでいるというもの――が、完全なるデタラメだとわかっていたから、親ロシア派に支配されている地域を解放する戦いへの参加を自ら望んだわけだ。現地に着いてからは、リマンの解放戦線や激戦地バフムートの防衛などに従事した。 バフムートには、戦争の恐怖が満ち満ちていた。 人的、物質的なリソースで遥かに優るロシア軍は、計画的にこの街を破壊していった。残忍な無差別爆撃、自軍の人命の損失も顧みない地上戦(ロシアは重犯罪者を刑務所から解放し、最前線に送り込んでいた)、国際法で禁じられている武器の使用など、実際に報じられている蛮行が目の前で繰り広げられていた。 戦場にいた私のような兵士は日々、ただただ生き延びることだけを考えていた。敵の進軍の阻止に従事しながら、自分や味方が殺されないことを願っていたのだ。 最前線では、とにかく辛抱しなければならない。寒さ、暑さ、飢え、渇き、肉体的苦痛、数日間の不眠などに耐える。洗顔や髭剃り、温かいコーヒー、コンクリートの上での睡眠らは、至上の喜びに感じられた。常に死の恐怖に晒されていると、平和な日々では当たり前だったことが、これ以上ないほど幸せに感じるのだった。 ある時、森のなかで3日間、見回りをした。ひとりの兵士に当てがわれた水分は、1日あたりコップ2杯。食料は少量の乾燥食を2度。大雨でぬかるんだ泥のなか、眠れるわけはないが横になり、文字どおり、数百メートル先にいるはずの戦車や上空で見張っているドローンの恐怖に瀕しながら、時折、マシンガンの銃弾が空気を切る音を頭上で聞いた。氷のように冷たい雨が激しく降るなか、深い水溜りとなった塹壕のなかで一晩中座り、反撃の指令が出れば、すぐに銃を構えた。 また30キロ以上の武器を装備して(グレネード・ランチャーを担当していた私はRPG-7という銃器を運んでいた)、5キロ先の地点まで走って向かうのも茶飯だった。当然ながら、その行程も非日常だ。攻撃されたら腹ばいになり、匍匐前進し、また立ち上がって駆ける――その繰り返しだ。まさにそうした行路を進んでいたなか、先述の親友セルヒーが銃弾に倒れた。