尾崎豊ってどんな人だった? 弁護士会会長になった兄に20代記者が聞いた「ユタカの生涯」 「弟らしさが最も現れている曲」とは?
▽渡米後の薬物使用、殴り合いの兄弟げんか 順風満帆に思われた兄弟の生活は、豊さんの薬物使用で一変する。音楽を学ぶために渡米したが、帰国後に幻覚症状に襲われ、ろれつが回らないことも。康さんは弟を監視するため頻繁に実家に帰り、殴り合いの兄弟げんかをして諭した。最後は薬物を見つけた父が警察に通報。覚醒剤取締法違反容疑で逮捕され、有罪判決が下った。 母は事件が知られないよう警察に泣いて頼んだ。だが、すぐさまマスコミは実家に押し寄せ、夜中に実家から自身の自宅へ両親を連れ出した。弟を酷評する報道も多かった。胸が締め付けられたが、家族で話し合い、保釈は求めなかった。更生を願ってのことだった。 世間からは厳しい視線を浴びたが、ファンは離れなかった。釈放後はテレビに初出演し、復活コンサートは5万人以上を動員。普段はおとなしい性格の豊さんだが、ステージ上では神がかったパフォーマンスを見せ、輝きを取り戻した。その後もヒット曲を連発。アルバムを記念した全国ツアーも決定した。
だが人気絶頂の中、豊さんは1992年に26歳の若さで突然この世を去る。 康さんは仕事を辞め、弟の事務所で対応に追われた。悲しみに暮れる余裕はなかった。追悼式には約4万人が殺到。ファンの多くは中止となったツアーの払い戻しを求めず、チケットを記念として手元に残した。衰えない人気の証左だった。 生活が落ち着き、康さんは自身の人生を見つめ直すようになった。何度も失敗して諦めかけた司法試験に再挑戦しようと決め、かつて弟と過ごした実家の勉強部屋に通った。33歳で合格し、埼玉弁護士会に登録。若者の不安や苦しみを歌った豊さんの影響もあり、少年事件や児童虐待問題に力を入れて取り組んできた。 ▽「ユタカらしさ」が最も現れている曲とは 急逝から31年。今も豊さんの存在の大きさを感じる。ファンから涙ながらに声をかけられたり、街中で楽曲を耳にしたりすることはしょっちゅうだ。「弟は社会に反抗する心情を歌っていたが、決して暴力的ではなかった。繊細な子にこそ響く曲だった。『自殺を思いとどまりました』と書かれたファンレターが自宅に届いたこともあった。人の心を動かす力を持っていた」