「この街は終わりですか」…震災直後の不安に、阪神大震災経験者がくれたアドバイスは 東日本大震災の経験者を訪ねたら、能登半島地震被災地へのメッセージであふれていた(2)
家族や親戚のだんらんを一瞬で奪った能登半島地震。間もなく発生13年となる東日本大震災の経験者たちは何を思うのか。一人一人を訪ねると、大切な人を亡くし、ふるさとから離れることを余儀なくされた体験を、能登の現状と重ねるように語り始めた。(共同通信=東日本大震災取材班) 【写真】避難所のうそ、今も罪悪感 「逃げた」自主避難の男性
▽恋愛や勉強…「気を使いすぎず周りの大人頼って」 原発事故当時は中学生だった語り部の小泉良空さん(27) 東京電力福島第1原発がある福島県大熊町で生まれ育ちましたが、中学2年の終わりに原発事故が起き、県内外に避難しました。今は大熊町の隣町、双葉町のまちづくり公社「ふたばプロジェクト」で働きながら、東日本大震災と原発事故の経験を伝える語り部活動をしています。 原発事故のニュースには専門用語が使われ、自分の町の話題なのに何が何だか分からず、混乱しました。通っていた中学校が再開されたのは、100キロ離れた避難先の同県会津若松市です。部長を務めていた吹奏楽部はメンバーが半分ほどになり、挑戦しようとしていたアンサンブルができなくなってしまいました。 かなわなくなったことばかり考えていては寂しいので、目の前にいる人との時間を大切にしていました。好きなアニメなど普通の話ができる友達の存在が大きく、避難先の吹奏楽団との交流も心の支えになりました。 能登半島地震の被災地には親元を離れて集団避難した中学生もいると聞きます。なおさら周りの大人を頼ってほしいと思います。被災して感じることは人それぞれです。「こんな考えは良くない」と、言いたいことを抑え込みやすいので、恋愛や勉強の相談でも構わないから気を使いすぎずに言ってみましょう。
原発事故で大きく変わった古里のために何ができるか分かりませんでした。13年近くがたち、ようやく地域に関わりを持てるようになったと感じます。学校に通っている皆さんには、今後の災害時に誰かを助けたり、今回の経験を伝えたり、できることはたくさんあります。今は焦らないでください。 ▽阪神大震災の経験者から教わった言葉胸に 宮城県気仙沼市人事課の芳賀洋介さん(43) 東日本大震災の発生後約3カ月間、宮城県気仙沼市の学校体育館で避難所の運営に当たりました。支援物資の管理からトイレ掃除まで、避難者の生活全般を支えるのが仕事。交代で体育館に泊まり込み、市役所で通常業務もこなしました。 各地から来た応援職員には助けられました。物資を運ぼうとすると「こちらでやるので、避難所全体を見てあげて」と気遣ってくれるのです。おかげで避難者との信頼関係の構築に時間を割くことができました。 1月中旬、石川県能登町の避難所へ派遣されました。13年前に全国から受けた支援の恩返しと思い、物資の仕分けや住宅地の夜間見回りを手伝いました。避難所の町職員は実質1人態勢。「先は長いのでしっかり休んで」と伝えましたが、無理していないか心配です。