クインシー・ジョーンズさん逝く その偉大さと43年前の熱い抱擁を思い出す
<ニッカンスポーツ・コム/芸能番記者コラム> マイケル・ジャクソンの「スリラー」を手掛けたプロデューサーで作曲家のクインシー・ジョーンズさんが91歳で亡くなった。 「大統領の次に多忙な男」と呼ばれた売れっ子だった一方で、無償であの「ウィ・アー・ザ・ワールド」をプロデュースするなど、チャリティー活動にも熱心だった。 そんな温かさを身をもって感じたことがある。 81年夏のことだ。来日公演を前にした会見の後、都内のホテルで行われた歓迎パーティーで、当時48歳のクインシーさんは大島渚監督らと歓談していた。監督の「愛のコリーダ」の音楽を担当した関係だ。大島監督とは顔見知りだったので、さりげなくその輪に加わってあいさつを交わした。 実はその頃、石原裕次郎さんが動脈瘤(りゅう)の手術を終えて闘病中で、その7年前に同じ病から復活を遂げたクインシーさんにコメントをもらおうという目的があった。 裕次郎さんのことを話すと、「おお、なんてことだ」と額に手を当てて天を仰ぎ、私の肩を抱いた。その力の強さに驚いた。当時の記事によると「ファイト、ファイト」とつぶやきながら、6回も背中をたたかれた。ペンを持つしぐさをしたので、サインペンと当時使っていたFAX用原稿用紙(B5判の半分程度の大きさ)を差し出すと、その裏面いっぱいに裕次郎さんへのメッセージを書いた。 そこにはこうあった。 「一瞬たりともあきらめるな。あなたは生きたいはずだし、あなたを必要とするたくさんの人がいることを私は知っている。だから闘うのみだ。生きること、そして愛することを大切にしてきたからこそ、あなたは手術に成功することができたに違いない。あなたの心の兄弟クインシー・ジョーンズ」 入社2年目の若造記者。そのつたない説明でも、裕次郎さんが日本を代表するスター俳優であることはなんとか理解してくれたのかもしれないが、窮地の人の力になれるなら、目いっぱいの気持ちで応える。そんな姿勢に胸が熱くなった。 シカゴ生まれのクインシーさんは、12歳の頃にジャズに夢中になり、トランペットを吹き始めた。14歳の頃にはレイ・チャールズやビリー・ホリデイのバックで演奏していたというから、かなりの早熟だ。そして、17歳で名門バークリー音楽院に進みアレンジを学ぶ。 クインシーさんの人生を変えたのは当時天才の名をほしいままにしていたトランペッター、クリフォード・ブラウンの言葉だという。 「クインシー、君は永久にボク以上には吹けないぞ。だけど、君のアレンジは素晴らしい」 演奏者としても一流の腕を持っていたクインシーさんは、この言葉でトランペットを捨て、アレンジャーに専念することを決めた。それが、世界的な名声を得ることにつながった。熱い心とともにものごとを俯瞰(ふかん)する確かな視点も持ち合わせていたのだ。 映画音楽でも「夜の大捜査線」「ゲッタウェイ」「カラーパープル」…。この17日にはアカデミー名誉賞が授与される予定だった。遺したものはあまりにも大きい。【相原斎】