『光る君へ』<道長の出世スピード>はいかに凄まじかったのか?父・兼家が40歳でなった「公卿」にわずか22歳で…そのワケ
『源氏物語』の作者・紫式部(演:吉高由里子さん)の生涯を描くNHK大河ドラマ『光る君へ』(総合、日曜午後8時ほか)。ドラマには多くの貴族が登場しますが、天皇を支えた貴族のなかでも大臣ら”トップクラス”の層を「公卿」と呼びました。美川圭・立命館大学特任教授によれば、藤原道長の頃に定まった「公卿の会議を通じて国政の方針を決める」という政治のあり方は、南北朝時代まで続いたそう。その実態に迫った先生の著書『公卿会議―論戦する宮廷貴族たち』より一部を紹介します。 花山院に矢を放った伊周・隆家兄弟は「左遷」。左遷先で彼らがどんな扱いを受けたかというと… * * * * * * * ◆「公卿」と呼ばれる地位について 公卿というのは、律令制のもとでは、四位・五位に相当する官人を含んで呼んでいたらしく、奈良時代にはそのような例が多い。 しかし、平安時代になると太政大臣、摂政・関白、左大臣、右大臣、内大臣、大納言(権大納言含む)、中納言(権中納言含む)、参議のことをいうようになるが、それらの官職に就いていない者も公卿の列に加えられた。 三位以上の者はすべて公卿ということになるが、参議であれば四位であっても公卿とされた。
◆議政官と公卿の違い また、特に重要なのが、議政官という地位である。 これは公卿と重なる部分もあるが、少し異なるところがあった。 これは太政官議政官会議に出席することができる立場ということで、左大臣、右大臣、内大臣、大納言(権大納言含む)、中納言(権中納言含む)、参議を指す。 つまり、三位以上であっても、名誉職的な性格の太政大臣、および摂政・関白、前官者(すでに大臣・納言・参議を辞した者)、非参議(三位以上で参議に任じられていない者)といった者は含めないのである。 道長の父である兼家の兄・兼通は安和2年(969)に正四位下のまま参議になったので、その時点で公卿となり議政官になったことになる。 兼家はその前年の安和元年に従三位となったので、すでに公卿にはなっていたが、まだ議政官に列したわけではない。兼家が議政官になるのは、安和2年、中納言になった時点ということになる。
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