『光る君へ』<道長の出世スピード>はいかに凄まじかったのか?父・兼家が40歳でなった「公卿」にわずか22歳で…そのワケ
◆昇殿はあくまで天皇との関係で決まっていた さて、道長が15歳で元服し、従五位下となったのは、天元3年(980)のことである。このような初めて従五位下となることを、「叙爵(じょしゃく)」という。 そして2年後の天元5年に昇殿を認められて、殿上人(てんじょうびと)となる。 一般に五位になると殿上人となると理解されているが、実際には昇殿は天皇によって清涼殿の殿上の間に上ることを許可されることなので、位と直接の関係があるわけではなく、あくまでも天皇との関係で決まるのである。 ちなみにこのときの天皇は、円融天皇である。 さきに述べた蔵人、そして検非違使(けびいし)、摂政・関白といった平安時代になってできた令外官も、天皇との直接の関係によって任命される官職であった。その意味で、殿上人と同じような原理によって成り立っているのである。
◆父よりはるかに速かった道長の「出世ペース」 道長が従三位となって、公卿となるのは、一条天皇が即位した翌年の永延元年(987)である。このとき、道長は22歳になっていた。 父兼家が公卿となったのが40歳であったのに比べると、はるかに出世のペースが速かった。 道長がこの若さで公卿になれたのは、父兼家が一条天皇の践祚(「せんそ」と読み、天皇の位につくこと。これに続いて位についたことを内外に明らかにすることを即位という)とともに摂政になったことが大きい。そして7歳の幼い一条天皇は兼家の娘詮子(東三条院)が生んだ外孫なのである。 道長はこの一条天皇の即位によって、その外叔父となった。つまり外戚の地位をえたのである。そして翌年には参議を飛び越えて、一気に権中納言に任じられる。すなわち議政官になったのである。 これ以降、道長は外孫後一条天皇(一条天皇の皇子)の即位によって、その摂政に就任する長和5年(1016)まで28年の長きにわたって、議政官の地位にとどまることになる。 *本稿は、『公卿会議―論戦する宮廷貴族たち』の一部を再編集したものです。
美川圭
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