日本の「防衛最前線」では何が起こっているのか? 映画『戦雲』が映し出す南西諸島住民たちのリアル
■皆の目が戦雲で曇ってしまう前に 基地問題を扱ったこれまでの映像に比べてこの映画が印象的なのは、住民への説明責任を果たそうと努力し、島々の暮らしや文化に溶け込もうと努める自衛隊員たちの姿だ。 与那国島での意見交換会で「法的には有事の際に自衛隊は島民を守れないはずだ」と町の職員を問い詰める住民に対して、「それはありません。それだけは明確に」と約束する隊長の目は、嘘を言っているようには見えない。 「彼が暑い中、島の神事でじっと手を合わせている姿なども見ていますし、その誠意は疑いません。ただ、彼らが認識している防衛計画と、私たちジャーナリストがつかんでいる情報はかなり違います。 沖縄戦の歴史を調べてきた私は、信念を戦況の悪化で捨てなければならない軍人の悲しさも、よく知っているつもりです。何か起これば彼らが真っ先に戦死する前提の作戦内容を知れば知るほど、彼らの姿もしっかり映さなければいけない、と思っていました」 住民たちも決して一枚岩ではない。「選挙で革新に入れたことなんてなかった」という人々もいれば、有事に自分たちを守ってくれる存在として駐屯地の設置に賛成している人もいる。 豊漁と安全を祈願するハーリー(海神祭)では、自衛隊員もチームの一員として共に船を漕ぎ、ライバルたちとしのぎを削り、酒を酌み交わす。このように自衛隊員と交流しながらも「ミサイルや弾薬庫は話が別だ」と言う人も多い。 また、与那国島の肉牛をブランド化するために「ミサイル牛」と名づけるのはどうかと、あえて冗談を飛ばす人も登場する。ひとつの島、ひとりの個人であれ、当然だがさまざまな意見や立場、感情を内包しているのだ。 映画は石垣島の於茂登岳(おもとだけ)に垂れ込める暗雲を背景に、「いのちと暮らしを守るオバーたちの会」の山里節子さんが八重山地方の代表的な民謡『とぅばらーま』に自作の詞を乗せて歌うシーンで始まる。 「いくさふむぬ まだん ばぐィでーくィそー(戦雲が また 湧き出てくるよ)」 太平洋戦争で家族の半分を失った節子さんは、石垣島での反基地運動の象徴的存在だ。辺野古の座り込みでは警備隊から座ったまま持ち上げられ排除される「ごぼう抜き」も経験している。 映画内で、節子さんは駐屯地入り口で警備に立つ自衛隊に語りかける。「あなたたちも本意じゃないでしょう?」「あなたたちっていうよりも、防衛省や組織に対して言いたいわけ」。隊員たちは答えない。