日本の「防衛最前線」では何が起こっているのか? 映画『戦雲』が映し出す南西諸島住民たちのリアル
8年に及ぶ取材をまとめた新作映画『戦雲(いくさふむ)』。その撮影日誌となる同名の著書には「国防を理由に島の生活がねじ曲げられ、悲鳴を上げる人たちを撮影し話を聞く行為は、ひたすらつらく、自分の無力さを責める時間でもあった」と記されている。 どれだけカメラを回しても、高江も辺野古も、南西諸島の状況も何も変わらない。「何がしたいの? まだ何かできると自分を買いかぶっているのか」と問いかける心中の声にさいなまれながら、製作費や公開のあてもなく、現地に通う日々だったという。 ■黙殺する者と黙殺される者 日米両国が南西諸島の軍備増強を進める背景には、この海域にさまざまな手段で進出する姿勢を示し続ける中国の存在がある。とりわけ「台湾有事」への懸念は強い。自治体や住民をダマすような手法で配備が進められても報道の量が増えないのは、有事の現実味が増しているからともいえるだろう。 しかしそれは、有事にこの島々が真っ先に標的になることへの黙認も意味する。映画では、戦闘時には島々を転戦しながら中国軍の侵攻を食い止める日米両国の作戦も明らかにされている。南西諸島が地上戦の場となることは、もはや戦略の前提となっているのだ。 ある子連れの女性は、宮古島駐屯地に向かって「『多少の犠牲はしょうがないさー』の『多少』の中に、私たちが入ってるよね?」とメガホンで問いかける。問われているのは自衛隊や国だけではなく、日本国民全員だ。 「自分の所属する群れが生き延びるためには、多少の犠牲は仕方ないという残酷な感覚が、私や沖縄県民も含む日本人の中にあると思うんです。『多少の犠牲』が上げる声は、常に圧殺され黙殺されてきました。 これまでは沖縄だけだったかもしれないけど、軍事費がこれだけ増えている中、ほかの場所で起こらないと考えるのは無理がある。自分に困り事があって声を上げても、『しょうがない』と黙殺される社会に生きているという現実はすごく恐ろしい」 沖縄本島よりもむしろ台湾への距離が近い与那国島や石垣島を含む先島諸島。この島々が要塞化されることについて、沖縄県民が総意で反対しているわけではない。かつて琉球王国が先島諸島に課した「人頭税」は苛烈を極めたが、今も沖縄本島から先島への差別意識は残っており、島々で起こる問題が軽視される傾向もある。 日本が沖縄を「しょうがない」と切り捨ててきたように、わが身の困難に苦しむ沖縄もまた、先島には無関心になりがちなのだ。 「沖縄に移住して30年、地域愛は人一倍強いつもりですが、沖縄だけが被害者であるかのような物言いには、違和感を持っています。あらゆる問題で黙殺する側と黙殺される側がいて、黙殺された人が別の誰かを黙殺することもある。 辺野古や高江を取材しても何も変えられなかったし、これからも変えられないかもしれない。それでも黙殺される人々が上げる声に『耳を貸してください』と一緒に声を上げるしかない。今はそう思っています」