こういう「本の読み方」はヤバい…頭の良い人が警告する、これから学ぼうとする人が陥りやすいワナ
先行きが見えない「答えのない時代」を生きる私たちにとって、「自分の頭で考える力」は必須です。でも、何をどのように考えれば良いのか、どのように勉強すれば良いのか、具体的な方法がわからない人も多いでしょう。 【写真】こういう「本の読み方」はヤバい……頭の良い人が警告すること 気鋭の哲学者・山野弘樹氏が、自分の頭で考えて学びを深めるための方法=「独学の思考法」をわかりやすく解説します。 ※本記事は山野弘樹『独学の思考法』(講談社現代新書)から抜粋・編集したものです。
『読書について』との出会い
そんな大学2年生の夏休みが終わると、「自分は馬鹿になってしまった」という思いを抱えながら、再び大学のキャンパスに通う日々が始まりました。あるとき、上智大学の図書館の地下一階に立ち寄ると、いつもあまり見ないコーナーのある本の背表紙が、とても浮かび上がって見えました。 その本のタイトルは『読書について』というものでした。ドイツの哲学者アルトゥール・ショーペンハウアー(Arthur Schopenhauer, 1788-1860)が書いた『パレルガ・ウント・パラリポメナ(付録と補遺)』という論集の中から、3つの論文がセレクトされて訳出された書籍です。 ちょうど、本の読み方について深い反省の念を抱いていた頃合いでしたので、その本との出会いは、半ば運命的なもののように感じました。 私は『読書について』を手に取り、1階の貸し出しコーナーで借り、そして丸ノ内線の電車内で読み始めました。 そのときの衝撃は、今でも忘れられないものです。「そうだったのか」と、すべてが腑に落ちるような体験でした。
ショーペンハウアーの「強烈な警鐘」
この本は、他でもない私に向けて書かれている──そう直観しながら、私は食い入るように読み続けました。ショーペンハウアーは、まさに私のような本の読み方に対して、あの冷ややかな文体で最大限の警鐘を鳴らしていたのです。彼の言葉を実際に読んでみましょう(以下、引用はすべて岩波文庫版に依拠しています)。 読書は言ってみれば自分の頭ではなく、他人の頭で考えることである。絶えず読書を続けて行けば、仮借することなく他人の思想が我々の頭脳に流れこんでくる。ところが少しの隙すきもないほど完結した体系とはいかなくても、常にまとまった思想を自分で生み出そうとする思索にとって、これほど有害なものはない。 というのも、他人の思想はそのどれをとってみても、それぞれ異なった精神を母胎とし、異なった体系に所属し、異なった色彩をおびていて、おのおのが自然に合流して真の思索や知識、見識や確信に伴うはずの全体的組織をつくるにいたらず、むしろ創世記のバビロンを想おもわしめるような言葉の混乱を頭脳の中にまきおこし、あげくの果てにそれをつめこみ過ぎた精神から洞察力をすべて奪い、ほとんど不具廃疾に近い状態におとし入れるからである。(11-12頁) 私は、これほどまでに「この本は自分について書かれている」と思ったことはありませんでした。淀みなく語られる彼の言葉は、まさに私の精神が陥っていた状況を正確に言い表していたのです。 まさに「読書は思索の代用品」(8頁)に過ぎません。それでは、読書とは区別される「思索」という営みは、つまるところどのようなものなのでしょうか? そこでこのプロローグにおいては、ショーペンハウアーの議論を参考にしつつ、「自分の頭でものを考えるとはどういうことなのか?」という問題について考えていきます。 さらに連載記事<アタマの良い人が実践している、意外と知られてない「思考力を高める方法」>では、地頭を鍛える方法について解説しています。ぜひご覧ください。
山野 弘樹(哲学研究者)