「わたしは死にたくない……でも、これを解き明かせるなら死んでもいい」とまで科学者が考えるものとは?
一石二鳥の妙案とは?
わたしは長らく神経科学に身を置き、いつの頃からか意識の不思議に取り憑かれた。これを解き明かせるなら死んでもいいと思った。 死にたくないと言った矢先に、今度は死んでもいいと曰( のたま ) い、さぞかし、言葉が軽いように思えるだろうが、死にたくないとのわたしの思いは本物だ。 では、そんなわたしに、解明できたなら死んでもいいと言わせしめる「意識」とはいったい何か。 哲学者のトマス・ネーゲルによれば、ずばり、“What it’s like(そのものになってこそ味わえる感覚=固有の内在感覚)” である。 わたしたちの脳には、脳になってこそ味わえる感覚が数多( あまた ) 存在する。網膜からの視覚入力を受け、脳がそれを情報処理すれば、脳には「見える」との感覚が生じる。蝸牛( か ぎゅう ) からの聴覚信号を脳が処理すれば、脳には「聴こえる」との感覚が生じる。悲しい物語に触れれば「悲しい」、難しい意志決定に直面すれば「悩ましい」との感覚が生じる。 たった今、この文章を目にしているあなたの脳にも間違いなくそれは生じている。なにも難しいことを言ってるわけではない。白色の紙面に印刷された黒い文字が見えているだろう。ただそれだけの話だ。 みなさんの狐につままれたような顔が目に浮かぶ。それが意識だとして、それが何か? と。ではラビット・ホールへとご案内しよう。 生まれてこの方、世界を見て、聴いて、感じてきたあなたからすれば、それらの感覚は当たり前のものに思えるに違いない。それこそが意識であり、その根底には、現代科学では説明のつかない深遠なる謎が横たわっていると聞かされても俄( にわ ) かには信じられまい。 ただ、ここで断言したい。脳にそれらの感覚(=意識)が生じることは、決して当たり前のことではない。マリー・アントワネットにとって当たり前のものであったケーキが、当時の庶民にとって当たり前のものではなかったのと同じように。 しかし、マリーであるあなた、意識そのものであるあなたは、なかなかそのことに気づかない。意識の定義と意識の不思議は表裏一体の関係にあり、それらをきちんと理解するには、ある種の悟りが要求される。そして、悟った刹那、大きな衝撃があなたを襲う。 先述のわたしの一石二鳥の妙案とは、まさにこの意識の難問に挑む、新たな科学的アプローチに他ならない。意識の問題の本丸、「そのものになってこそ味わえる感覚」を直接的に扱い、それを解き明かそうとするものだ。 「意識の解明」と「不老不死の実現」。おそらく宇宙人はすでに達成している。産業革命から凡そ300年、我らが人類も、そろそろ本気でとりかかってよい頃合いだろう。
渡辺 正峰(東京大学大学院工学系研究科准教授)