「ウクライナ侵略を考える~『大国』の視線を超えて」著者、加藤直樹氏に聞く(1)「反侵略」の立場から(全4回シリーズ)
◆モスクワからウクライナを眺める視線に違和感
●著書のなかでは、ロシアの侵略を擁護する人たちに対し、それぞれ文献・論文を検証しながら批判を展開しています。日本のウクライナ理解でこれまで何が足りなかったのでしょうか? 加藤氏: 私はウクライナやロシアについては全くの素人です。ロシアの全面侵攻が始まって以降、勉強を始めました。ネットにはウクライナをめぐって真偽不明の情報が氾濫しています。とくに侵攻開始直後はひどかった。洪水のように拡散されていた気がします。 私は、まずはそうした不確かなものは排除して、アカデミズムの世界でウクライナについて専門的に研究している学者による書籍や論文を中心に読み進めました。そうすると、事態の「本筋」が見えてきて、ネット上に氾濫する情報についても、一定の判断ができるようになりました。最低限の正確な知識と、それをフェアに活用する気構えがあれば、「これはデマだな」「これはアンバランスな見方だな」「これは根拠薄弱だ」と分かるようになります。
おかしな言説が出てくるのは、トリビアルな情報を恣意的につなげて歪んだ像を結ぶからです。トリビアルな情報はその真偽を検証することが不可能であることが多い。また、事実であっても、それをどのような文脈の中に置いて考えるか、全体像の認識を左右する重要度や一般性をどの程度もった事象なのかといったことが吟味されるべきなのですが、そこを飛び越えてしまう。これは、一時期の書店で平積みされていた嫌韓本の韓国像の作り方と同じです。 情報の恣意的なつなげ方でウクライナを否定的に説明する言説が、疑われることもなく受け入れられてしまう根底には、いくつかの理由があると思っています。
第一に、私たちがウクライナという国についてほとんど無知だったということです。私自身も、たとえば作家のゴーゴリが民族的にはウクライナ人であったことなど、侵攻前は知りませんでした。ウクライナについて全く知らないところに、どこからか真偽不明の情報が大量に流し込まれてしまった。 第二に、研究の世界でもジャーナリズムの世界でも、モスクワからウクライナを眺めるような視線が無自覚な前提になっていることです。昔の記事などを読んでいると、全国紙ではモスクワ特派員がウクライナもカバーしていることが分かります。また、ロシア研究者には、無自覚のうちに宗主国ロシアの視線や認識の枠組みを内面化している人がいます。これも、かつての宗主国である日本人の韓国像が歪む力学と通じるものがあります。