「アブソリュート・チェアーズ」(埼玉県立近代美術館)レポート。ウォーホルやベーコン、名和晃平らの作品を通じて「椅子の絶対的魅力」に迫る
コンセプチュアルな草間、岡本作品
2階展示室で行われる本展は5章構成。第1章「美術館の座れない椅子」は、冒頭にありふれた木のスツールに車輪を固定したマルセル・デュシャンの《自転車の車輪》を展示。既製品をアートに転用した、初めての「レディメイド」作品だ。 草間彌生の柔らかい突起物で覆われた椅子型オブジェ、岡本太郎《坐ることを拒否する椅子》、高松次郎の《複合体(椅子とレンガ)》も並ぶ。いずれも椅子本来の機能を脱臼させ、鑑賞者にコンセプチュアルな問いを投げかける。切断した椅子をカラフルに塗り、即興的に組み立てたジム・ランビーの作品は、芸術と日常を接続する素材として使われている。 第2章「身体をなぞる椅子」は、人間の体を受け止める身体性に注目。フランシス・ベーコンによる肢体が溶け落ちるような絵画、肥大化した2つの脳がキスを交わす工藤哲巳のアイロニカルな彫刻が目を引く。「ともに戦争の悲惨なイメージから派生した崩れゆく身体を支えるものとして椅子を扱っている。両作家の椅子のとらえ方が似通っていることは、今回の大きな発見だった」と佐伯学芸員。 ときに椅子は身体を補助する機能を持つ。アンナ・ハルプリンの《シニアズ・ロッキング》は、当時85歳だった作家が身動きが不自由な高齢者にダンスを振り付け、座ったまま踊る様子を映像に収めた。ロッキングチェアをリズミカルに揺らし、手を振り上げる姿は生気にあふれている。
権力を象徴する玉座、電気椅子
玉座のように権威を象徴したり、電気椅子のごとく死を目的に使われたり。第3章「権力を可視化する椅子」は、アンディ・ウォーホルのシルクスクリーン連作「電気椅子」をはじめ、死や暴力、強いられる規範に対し椅子が象徴的に登場する作品を紹介。中国出身のシャオ・イーノン&ムゥ・チェンによる文化革命期の集会場の写真連作、ビデオアートの先駆者ダラ・バーンバウムが「座らされた」自身を観測した映像作品、渡辺眸が1960年代後半の東大全共闘を撮影した写真などが並ぶ。渡辺作品は、学生たちが教室の椅子が大量に使ってバリケードを築いた場面が写され、大学の秩序崩壊を伝える。 1975年の独立後、20年近く内戦が続いたアフリカのモザンビーク。クリストヴァオ・カニャヴァート(ケスター)の《肘掛け椅子》は、内戦で使用されたソ連製銃器などを解体し、部材を再溶接して作られた。戦争終結後に残った大量の武器を農具などに変える「銃を鋤に」プロジェクトの一環として制作したもので、国際的な武器市場の存在や地政学的な問題も考えさせる。 拷問器具を連想したのは、ポーランド出身のミロスワフ・バウカによる《φ51x4, 85x43x49》。斜めに宙づりにされた椅子と、その足元に置かれた鉄輪で構成されている。鉄輪が埋もれている白い塩は、迫害と圧政に苦しめられた人々の涙が結晶したようだ。 日常の様々な場面で目にする椅子は、記憶や個人的な物語、多様なイメージが宿る存在でもある。第4章「物語る椅子」は、気化するナフタリンを使い歴史と記憶を表現する宮永愛子、無数の透明な球体で表面が覆われた「PixCell」シリーズで知られる名和晃平、ベルギー出身のハンス・オプ・デ・ビークの彫刻が一室にゆったりと配置され、本展の大きな見どころになっている。 ソファに横たわり、まどろみ続ける少女。オプ・デ・ビークの《眠る少女》は、灰色一色に塗り込めた色彩が、時間が静止したような感覚をもたらす。夢見るような少女の顔や体に掛けられた毛布に記憶を揺さぶられる人も多いだろう。 様々な状況の椅子が写り込んだ潮田登久子の写真連作「マイハズバンド」や、石田尚志によるイメージと実体が交錯するドローイング・アニメーション作品も紹介。刺繍で日用品の輪郭を再現するYU SORAのドローイングは、黒い糸が所々で切れて下がり、日常の儚さを暗示する。