引き止めてくれたのは「潮の香り」 海が“消えた”防潮堤の町で、それでも漁師を続けていく #あれから私は
海が見えないのはこんなにも不安なんだ
震災から10年。かつて「日本一美しい漁村」と呼ばれた雄勝町の浜辺には、高さ約9.7m、延長約3kmにも及ぶコンクリートの防潮堤が建てられた。 ―この光景を見て、何を感じますか? 佐藤一さん: 子どもの頃は防潮堤なんてもんはなくてさ。ガードレールの向こうはすぐ海だったんだよ。それから防潮堤ができたけど、ちょっと登れば、海が見えて。だけどもう、海は一切見えない。今はそれが不安でしょうがない。 俺たち漁師は、ふとした瞬間に眺めた海から、色んな情報を得ていたんだって今さらながら気がついた。「今日はどっちの風だな」とか。「今日はあの人が船出してるな」とか。自分が海にいても、誰かがこっちを見てくれていると思えばちょっと安心する。海の上で、視界に誰もいないっていうのは、やっぱり怖い。防潮堤でこちらとあちらが遮られるだけで、こんなにも不安になるのかって、今は感じています。
―防潮堤の建設について、行政と議論の余地はなかったんですか? 佐藤一さん: ないですね。「漁港も道路も、防潮堤も、全部セットで整備します」って言うんだもん。行政の人が図面を持ってくるんだけど、そこで反対してると全部が遅れちゃう。とにかく当時は漁港を一刻も早く整備してほしかったから、防潮堤について議論してる余裕はなかったですよ。とにかく漁港が元に戻らないと仕事にならないんだから。 「こんな防潮堤いらない」ってみんな思ってるんじゃないかな。まあ浜に降りれば海も見えるし、いつかはこの光景にも慣れるのかもしれないけど。それでも、当たり前だったものが当たり前じゃなくなったっていうのは、やっぱり大きいなって思いますね。
根性無しかと思ってたけど、今の若者って偉いよ
現在は漁協の副運営委員長を務めている一さん。震災後は、さまざまな復興事業にも携わってきた。 ―「俺がやらなきゃ」と思うところがあったのでしょうか? 佐藤一さん: ちがう、ちがう。副運営委員長は、人がいないから押しつけられただけで。復興事業の手伝いは、なんとなくです。頼まれると断れない性格だから。「何か新しいこともしてみよう」って気持ちがなかったと言えば嘘になるけど。まあ色々やって、色んな発見があったよ。最終的に感じたのは「結局は自分が動かないと、ものごとは進まないんだ」ってこと。他人をアテにしてやったものは、大抵は中途半端なままでダメになっちゃった。 ―逆に携わって良かったと思えるような事業は? 佐藤一さん: 一番は、担い手事業(水産業の新たな担い手を育てる石巻発の事業)かな。漁師になりたいっていう若者に、漁業の基本を教える講師役をやったんだけどさ。正直、「続かないんじゃない?」って思ってた。若者の根性のなさは知ってたから。でも、こんな時代だからこそ、やりたい奴にはやらせてみてももいいんじゃないかなと思って。最初はそんな軽い気持ち。俺自身は「担い手」はいらなかったんだよ。なんだけど、ちょうど親父が亡くなってしまって。結果的に担い手事業で出会った、ふたりの若者に一緒に働いてもらってます。 ―どんなおふたりですか? 佐藤一さん: 大輝と翔って言うんだけど。早い段階から「こいつら本気なのかな」っていうのは匂ってた。ただ漁師の仕事って、職人さんが「技は盗め」っていうのと近いものがあって。そこをどう伝えていくかは、結構悩んだね。 周囲の漁師仲間にも認められないと漁協の組合員にはなれないから、顔合わせとかに頻繁に連れて行ったりはしたよ。けれど、それは最初だけで、あとは自分たちで勝手に溶け込んでいった訳だから、そこはあいつらの頑張りだね。 ―ある種、理想的の育て方にも感じます。 佐藤一さん: あれが正解だったのかはわからないな。たまたま上手くいっただけかもしれないし。ただ、歳が離れていたのは良かったのかも。言っちゃ悪いけど、まだまだ子どもだと思ってたから。大輝が27歳で、翔が20歳でしょ。まぁでも、偉いよ。俺がそのくらいの頃は、あんなにマジメに仕事してなかったもの。偉いなって思うよ。 ―息子さんが漁師の仕事を継ぐことになったら、今度はふたりが兄弟子になるかもしれませんね。 佐藤一さん: うーん、ウチの子は漁師にならないと思うけど。まあ万に一つもそうなったら、俺から指導されるよりはいいかも。やっぱり親子ってすんなりいかないもんだから。俺と親父みたいにね。 (撮影:平井慶祐 / 動画編集:廣瀬正樹 / 文:福地敦)