「御曹司に見初められてハイスペ婚」結果はどうなる?平安時代もさほど変わらない『蜻蛉日記』作者の末路
【史実解説】兼家は道綱母にメロメロ!?御曹司にコクられても一度はNOと返事した道綱母
寧子のモデルである道綱母は歌人・藤原倫寧の娘。倫寧は紫式部の父・為時と同程度の階層の貴族です。彼女の本名は分からないため「道綱母」と呼ばれています。 中公卿の御曹司・兼家が道綱母に恋心を抱いたことで、ふたりの関係がはじまります。彼のプロポーズ方法は当時としては風変わりなものでした。通常、仲介者に頼んだり、年配の女房に手紙を渡してもらったりしますが、兼家は道綱母の父・倫寧に直接申し込みます。 娘が御曹司からプロポーズされれば、父親であれば誰もが大喜びするはず。もちろん、倫寧は快諾しました。 一方、19歳前後の道綱母はプライドがすでに高かったようで、妻(時姫)がすでにおり、子ども(道隆)までいる20代半ば頃の男からの求婚に後ろ向きだったそう。 しかし、兼家は諦めません。馬に乗った人を使者にたて、門をたたかせて、ラブレターを送りました。この手紙を受け取った道綱母は求婚に応じました。 御曹司から繰り返し求婚された道綱母は実際のところどのような女性だったのでしょうね。彼から求婚された当時、見た目の美しさや賢さが評判だったという言い伝えもあります。
いつの時代も男は女泣かせ。「玉の輿婚」だってハッピーになれるとは限らない
兼家は道綱母に幾度もさみしい思いを度々させたようです。彼女は気分がふさぎこむと、物詣と称し、旅に出ることもありました。 兼家は旅先の道綱母に手紙を送ったり、迎えに行ったりして、彼女の心を自分のもとへと戻そうとします。 道綱母は『蜻蛉日記』で日記文学という新しいジャンルを生み出しましたが、これには兼家への抵抗が関係するという見方もあります。 当時、妻による私家集は夫の名誉拡大を後押しするものでした。彼女が歌集を編んだとすれば、兼家の名声を高めることに協力することになりえます。このため、道綱母は日記文学をつくることで、それを拒否したという意見もあります。 とはいえ、『蜻蛉日記』には兼家の不遇の時代は書かれていませんし、彼の評判を落とすような記述もありません。また、彼はきらびやかな男としても描かれています。 道綱母は兼家の権勢拡大に直接的に協力することを仮に拒んだとしても、それでも彼を愛していたのでしょう。自分に恋心を抱いてくれて、なんだかんだ気にかけてくれる彼を愛していたはず。 『光る君へ』の15話における寧子の言葉「高望みせず 嫡妻にしてくれる心優しき殿御を選びなされ」は考えさせられる台詞です。現代の日本には嫡妻・妾という考え方はありませんが、ハイスペックな相手との関係を望む女性は多くいます。 自分よりもスペックの高い男性と関係性を築けば、さまざまな景色を見せてもらえたり、ロマンティックな時間を過ごせたりすることもあるでしょう。しかし、他の女性の陰に不安になったり、不倫問題に悩まされたりする可能性は低くないはず。自分のことだけを見つめてくれる相手と結婚した方が心労も少なく、心穏やかに暮らせるものなのかもしれません。 前編記事では道綱母の作中での描かれ方と、そこから見えてくる女性の立場について解説しました。後編では女性たちが恋も楽しんだ「平安時代の旅行」について。 参考文献 ・服藤早苗「「源氏物語」の時代を生きた女性たち」 ・木村朗子「紫式部と男たち」
ライター・アメリカ文学研究者 西田梨沙