『逃げ上手の若君』南北朝時代の武士の象徴? 時行が立ち向かう小笠原貞宗は悪者だったのか
現在放送中のTVアニメ『逃げ上手の若君』。諏訪頼重(演:中村悠一)に導かれて諏訪の地へやってきた主人公・北条時行(声:結川あさき)は、仇敵・尊氏を打倒し天下を取り戻すべく「逃若党」の仲間と共に鍛錬の日々をおくる。ところが彼らの前に、北条残党を捜索する信濃守護・小笠原貞宗が立ちはだかる。小笠原貞宗は史実に基づくキャラクターだ。実際の彼はどのような人物だったのだろうか。 ■足利尊氏について諏訪氏ら旧勢力と対立 新政権の威光をかさに高圧的な態度をとり、果ては諏訪大社の巫女にまで矢を射かける小笠原貞宗。古くから諏訪に根付いていた旧勢力の代表を諏訪氏とするならば、新興勢力の代表がこの小笠原氏といえるだろう。 小笠原氏の始まりは鎌倉幕府御家人だった加賀美遠光の次男・長清が現在の山梨県南アルプス市にあたる甲斐国小笠原を与えられたのが始まりとされる。加賀美氏は清和源氏の一流である河内源氏にルーツを持ち、源頼朝から御門葉(源氏一門)として認められた名門だった。 長清が支配した小笠原の地には貢納する馬を育てる牧が置かれていた。平安時代の家人・藤原清輔の著作『和歌初学抄』によれば小笠原は甲斐国の歌枕とされ、都でも小笠原は名馬の産地として認識されていた。 馬を飼育する過程で磨かれた乗馬や弓矢の技術はやがて体系化され、小笠原流弓馬術として全国に広まっていった。今でも鎌倉・鶴岡八幡宮で奉納される流鏑馬も長清を祖とする小笠原流弓馬術である。 小笠原貞宗は正応5年(1292)に生まれた。元服すると9代執権・北条貞時から偏諱を受けて貞宗と名乗る。 貞宗39歳の元弘元年(1331)年10月には得宗・北条高時の命を受けて河内国で蜂起した楠木正成の鎮圧のため西国に出征している。このとき貞宗とともに大和路を進軍した武士の中に諏訪祝の名も見える。南北朝・室町時代には鋭く対立した両者だが、この頃はまだ轡を並べる同僚だったのだ。 元弘3年(1333)4月27日、鎌倉幕府からの離反を決意した足利尊氏は当時伯耆国の船上山にいた後醍醐天皇の勅として結城氏や島津氏らといった有力御家人に対して文書を発給した。同じ日に尊氏から軍勢催促を受けた小笠原氏もそれに応じて戦い、勲功として信濃国の守護職を獲得した。これを契機に小笠原氏は諏訪国を拠点として勢力の拡大を図り、諏訪氏ら旧勢力と対立していくことになるのである。 貞宗はまた小笠原流礼法の祖とも伝えられているが、どうやらそれは伝承にすぎないらしい。しかし重要なのは貞宗が現代まで伝わる礼法を完成させた人物として認識されている点であり、実際に小笠原氏中興に彼が果たした役割は大きい。『逃げ上手の若君』では主人公・北条時行の前に立ちふさがる悪役を演じ、インパクトのある容貌でネタキャラのような描かれ方をされているが、なかなかどうして、歴史上でも重要な人物なのである。 ところで、小笠原貞宗と対決する北条時行を支えた奉行人の中にも同じく「貞宗」を名乗る人物が存在したことが現存する古文書から判明している。同時期に発給された文書から小笠原貞宗とは別人と見られるが、小笠原貞宗と同じく鎌倉幕府に仕えていた人物だろうと想像される程度で名字も経歴も、その後の足取りもまったくの謎だ。 激動の南北朝時代に北条氏から足利氏へと仕える相手を替えて戦いに明け暮れた小笠原貞宗と、滅びた鎌倉幕府の遺児に仕えた「北条時行奉行人・貞宗」。二人の人生はそれぞれに鎌倉幕府滅亡後の元・御家人の人生を象徴するものといえるだろう。
遠藤明子