「審査員が金品や接待を求めた」過去も 元審査員が明かす「レコ大」の裏側
審査員が記者中心の理由
何度かの改革を経て今は、作曲家協会の基準に沿ってレコ大の審査に当たるのは新聞協会加盟社の音楽担当記者11人。さらに地方局の6人。少数だが、地方局の審査員が復活した。さらに音楽評論家が1人。尚美学園名誉教授でもあるベテランの富澤一誠氏(73)だ。審査委員長を務めている。 審査員が記者中心になったのは1990年代以降。それまでの審査員は地方局の人間のほか、フリーの音楽評論家が多かったが、評判の良くない人物が含まれていたから。 「芸能プロダクションやレコード会社から金品や接待を求めたりしていた」(元審査員A氏) このためだろうか、あるときからフリーの音楽評論家は全員が降ろされた。なぜ、記者中心になったかというと、「利害関係のある相手から利益供与を受けてはならない」という教育を受けているためだろう。 「万一、記者が金品を受け取ったら、会社から懲戒処分を受ける。よく聞く金の受け渡し方法は、相手の会社の社内報などに載せるコラムなどを依頼され、原稿料を受け取る。原稿料の名目であろうが、金を受け取ることは許されません。相手の目的は金を渡すことなのですから」(元審査員A氏) ところが奇策を編みだした審査員もいた。ある一般紙の記者である。芸能プロ、レコード会社の人間をいつも同じスナックに誘った。東京都港区内の店だった。 「会計は誘われた側がしていた。これを許す時点で記者側はおかしいのですが、現金の授受ではないので構わないと思い込んでいたらしい。やがて、いつも同じ店である理由が分かります。その店は記者と親しい女性が営んでおり、利益を落としていたのです」(元審査員B氏) 無論、この記者は審査員から外れた。 元審査員A氏は「レコ大の曲がり角は旧ジャニーズ事務所が撤退した1991年だった」と振り返る。 レコ大は1990年(第32回)から、大賞などの各賞を「歌謡曲・演歌部門」と「ポップス・ロック部門」に分けた。一方、故・ジャニー喜多川氏は「お祭り忍者」をヒットさせた新人グループ・忍者に「歌謡曲・演歌部門」の最優秀新人賞を獲らせたかった。