江戸は「坂」の多い町 物資を運ぶ苦労は並大抵ではなかった!
江戸の食文化を支えた商店
赤坂・麹町・永田町エリアには、貝坂・中坂という坂もあった。現在の千代田区平川町1丁目である。 『麹町永田町外櫻田絵図』には、その周辺に「ハマグリ店・肴(さかな)店」「ケダモノ店」の文字がある。「店」は、たな(または、だな)と読む。 この区画(絵図のグレーの部分)は武家地に隣接した町人地で、商店があった。ハマグリは江戸のご当地グルメであり、「肴」は魚。つまり生鮮魚介類の販売店だ。 一方の「ケダモノ店」は、猪(いのしし)や鹿など現代でいえばジビエを扱っていた。鳶(とび)・鵜・小鳥などの鶏肉も売っていた。 江戸時代は、基本的に肉食はない。ただし、薬として肉を食べることはあり、武士には好む人もいたという。そうした者たちが買いに来る場所だった。海鮮や肉も、荷車などを使って運ばれた。
ひとりで押すのは禁止されていた荷車
荷車の押し方についてもふれておこう。 江戸末期の類書(百科事典)である『守貞漫稿』には、荷車で米俵を運ぶ4人の男の絵があり、注釈にこう記されている。 「図のごとき車は寛文期(1661~1673)に江戸で作られたもので、人が八人で牛に“代わって”引くので『代八車』と呼ばれ、いまは『大八』と書く。時がたつと四夫(4人)で運ぶことも増え、これを『よてん』という。三夫、二夫の場合もある。軽いときは一夫で引いたが、実は禁止されていた」 「車の先頭の者は『楫』(かじ)といった。船の船頭に準ずる呼称だろう。楫は『えんほれ、えんほれ』と掛け声を発し、一歩ずつ足を動かした」 ひとりで引くのが禁止されていたのは、おそらく危険を防止するためだろう。坂が多い江戸でひとりで無理に荷車を使うと、事故が起きかねない。 しかし『守貞漫稿』は、人手が足りないなどの理由から横行していたことをほのめかしている。現場はできる限りの対策を講じながら、物流を維持し続けなければならなかったからだ。現代も似たような問題を抱えている。 江戸の坂は物流に不可欠な存在だった一方、運搬の障害にもなっており、人々はその困難に立ち向かいながら、物資を運び続けたのである。 ●参考文献 ・坂の町 江戸東京を歩く 大石学(PHP新書) ・江戸の坂 東京の坂(全) 横関英一(ちくま学芸文庫) ・江戸・東京の地理と地名 (日本実業出版社) ・古地図で歩く江戸と東京の坂 山野勝(日本文芸社)
小林明(歴史ライター)