江戸は「坂」の多い町 物資を運ぶ苦労は並大抵ではなかった!
紀尾井坂・三宅坂・霞が関坂
江戸を代表する坂が集中する赤坂・麹町・永田町エリアを見てみよう。そもそも「赤坂」という地名が、厄介な場所だったのを物語っている。赤坂の地名は「赤い土」に由来するが(江戸時代の随筆『南向茶話』)、この土は粉状になると排水性や通気性が悪く、ぬかるみを作って悪路になりやすかった。 “坂のバイブル”といわれる解説書『江戸の坂 東京の坂』を著した横関英一は、 「全国の坂でもっとも多い名称は赤坂」 と記しており、江戸に限らず日本中が日々、赤坂に悪戦苦闘していたことを示唆している。そのような厄介な坂の上を、人力で荷車を押し、物資を運んでいた。 赤坂・麹町・永田町エリアの坂も、そんな赤土だらけだった。同時に江戸城の赤坂御門があった外堀と、桜田門があった内堀とに挟まれた、有数の大名屋敷が軒を連ねるエリアでもあった。今も国会議事堂、総理大臣公邸、最高裁判所などがある日本の中心地といっていい。 この一帯で有名な坂は、紀尾井坂と三宅坂(みやけざか)、霞が関坂だろう。紀尾井坂は御三家の紀州藩・尾張藩、彦根藩井伊家の中屋敷に囲まれていたことから、「紀」「尾」「井」の3文字を冠して名づけられた。 『東京府志料』(1872(明治5)年の地誌)によると「長さ四十五間(約82m)、幅八間(約14.5m)」(当時)。紀州・尾張・彦根の大藩に運び込む荷物が多かったためだろうか、道幅が広いのが特徴だった。一方、国土地理院のデータによると平均勾配は8%で、これは自転車で上るにはきついとされる。荷物の運搬に不向きな坂だった可能性は低くない。 なお1878年5月14日、明治政府の内務卿・大久保利通が紀尾井坂下で暗殺された。社会を揺るがす大事件が起きた現場としても、歴史にその名を刻んでいる。 三宅坂は内堀沿いに走る坂で、名称は三河国・田原藩三宅家の上屋敷があったことに由来する。現在の勾配は緩やかだが、日本坂道学会会長の山野勝によると江戸時代は急坂であり、重い荷車を押すのに苦労したため「立ちん坊」に依頼して押してもらったという。 「立ちん坊」とは坂の下に立ち、荷車が通ると押すのを手伝って駄賃をもらう者である。日銭を稼ぐさまざまな男たちが、荷物の運搬に関わっていた。 また霞が関坂は、広島藩浅野家(松平安芸守)と福岡藩黒田家(松平美濃守)の上屋敷の間にあった。現在は前者が国土交通省と総務省、後者は外務省などになっている。 高低差は4mなので緩やかといえるが、浮世絵『東都三十六景 霞ケ関雪中』を見ると急坂の印象を持つ。絵画はデフォルメされることもあるためうのみにはできないが、少なくとも雪の日は大変だったろうし、雪が溶けて赤土が露出すれば悪路となったはずだ。