改元発表に沸く「平成」地区の一日――その裏にある地域の課題を見る
新元号「令和」が発表された4月1日、平成(へなり)の地名がある岐阜県関市は、平成時代の始まりの時のような注目を集めました。しかし、平成元年からの30年余りで深まった地域の課題や残された傷跡も。その解決の役割を新世代にバトンタッチできるかが問われます。 【写真】渋谷、新元号発表の瞬間 人々はスマホを構えていた
パブリックビューイングは大盛況
「おおー」「れいわぁー」「平和みたい」「昭和の和はついてるね」 午前11時半過ぎ、スクリーンに「令和」の書が映し出されると、拍手と共にさまざまな声が上がりました。道の駅「平成(へいせい)」に隣接する施設に設けられた「パブリックビューイング」の会場。主催者の予想を上回る120人以上が詰め掛け、発表が一段落つくと参加者がメディアのインタビューを受ける姿があちこちで見られました。 今月で高校3年生になる岐阜市の男子生徒は「出典が万葉集だったというのに驚きました。僕自身が平成生まれで、この4月にちょうど選挙権(18歳)を得るので、子どもと大人の線引きという意味も感じます」。一緒に訪れた母親と祖母も「昭和から平成、そして令和と3世代になりますね。戦争のない平和な時代になってほしい」と話しました。 岐阜県の下呂温泉へ旅行に来たついでに立ち寄ったという兵庫県の70代と60代の夫婦も「自分のイメージとは違ったけれど、聞いてみるとなかなかいい」と口をそろえます。「自分たちは団塊の世代なので、これからの子どもたちにとっていい時代、災害のない時代に」と願いを語りました。 参加者には「令和」の文字をプリントアウトしたカードが手渡され、道の駅では「平成」グッズに人だかりが。もちろん平成はまだ1カ月ありますし、平成の地名もなくなるわけではありません。地元では今後も「平成まつり」や日の出、日の入りを見る会などさまざまなイベントを開催する予定です。
現地の集落はひっそり
平成は市名や町名ではなく旧武儀(むぎ)町、現関市下之保(しものほ)の一部を指す字名です。平成元年当時も9世帯35人の小集落でした。そこに当初は観光客やマスコミが殺到、幅4メートルほどの町道には1日1000台の車が列をなしたそうです。 当時、町は急きょ古い漬物工場を売店にして、特産の原木しいたけやコースター、テレホンカードなどを販売。「平成と付いていれば何でも売れた」と言われるほどに。1990(平成2)年には竹下内閣による「ふるさと創生1億円事業」を元に、地区の平成川に「元号橋」を建設。女優の三田佳子さんを村長に招いた「日本平成村」構想も進められました。しかし「平成フィーバー」は長く続かず、2年ほどで現地を訪れる観光客は激減。特産品販売は1994(平成6)年にできた日本平成村花街道センターに集約され、これが2年後の1996(平成8)年に「道の駅」となりました。 平成地区の人口は今年1月現在で6世帯17人に。新元号発表直後に現地を訪れてみても、人影はほとんど見られませんでした。元号橋や「平成自然公園」周辺もひっそりとしていましたが、むしろ咲き始めの桜や静かな川のせせらぎが美しく感じられました。 この日のイベントを担当した実行委員の1人は、1年半前に名古屋から移り住んだ関市役所武儀地域おこし協力隊の江坂侑さん。改元に向かう今の「平成ブーム」を盛り上げつつ、むしろ「平成が終わった後が勝負」として、この地域の幅広い魅力や地域資源の発掘、発信に努めています。ブログでは「鬼が落とした大石」「乙姫様の小便器」などのいわれがある隠れた名所や、新たな特産品として開発されている「パッションフルーツ」などを紹介。若い人たちにも興味を持ってもらえるよう知恵を絞っています。 「『令和』はちょっとおとなしい感じがするけれど、新しいイメージ。これも利用しながら僕らが“平成の次”を頑張らなければ」と気を引き締めていました。