『ルックバック』は創り手の背中を押す傑作か? <嫉妬が怨念と化した自分>を描く覚悟と、その先の讃美歌
答えられない重要な問い「なんで描いてるの?」
アニメ版『ルックバック』は、藤野が机に向かって4コママンガを描いてるシーンから始まる。カメラは部屋の隅に固定され、彼女の背中が延々と映し出される。そこに創作の高揚感は感じられない。物凄い勢いで貧乏ゆすりをしながら、背中を丸め、孤独な作業に没頭している。 藤野は、なぜこんなに絵を描き続けるのだろう。なぜ魂を削り取られるような日々に、身を置くのだろう。彼女自身、「楽しくないし、メンドくさいだけだし、超地味だし、一日中ず~っと絵描いてても全然完成しないんだよ?読むだけにしたほうがいいよね。描くもんじゃないよ」という発言をしている。 「じゃあ藤野ちゃんは、なんで描いてるの?」 京本が藤野に素朴な問いを投げかけると、突然画面は真っ白な背景に覆われ、そのセリフが吹き出しで表現される。マンガではよくある手法が、アニメーションというアートフォームで再現されている。それだけこのセリフは、作品のなかで重要な意味を持つはず。 だがその問いに、藤野は答えない。いや、答えられない。人から褒められたい訳でも、お金を稼ぎたい訳でもない。描くことに理由があるのではなく、描かざるを得ないから描いているのだ。彼女は、<業を背負った人間>なのである。 本作の監督を務めた押山清高は、脚本、絵コンテ、キャラクターデザイン、作画監督でもクレジットされている。アニメーション制作という集団作業において、彼は主要な作業をほぼひとりで請け負ってしまったのだ。きっと彼も藤本タツキと同じように、<業を背負った人間>なのだろう。 ひとりの漫画家が創り出したパーソナルな物語を、ひとりのアニメーション作家が一手に背負い、劇場用作品を産み出してしまった。『ルックバック』に込められている<創り手の想い>を感じながら、押山監督は日々孤独な作業を続けたのではないか。その結果アニメっぽい均一の線ではなく、描き手のニュアンスがそのままダイレクトに伝わる、パーソナルな表現となった。 ■58分に込められた、クリエイターの“業” 「振り返る」=過去の出来事を思い出す。「背景(back)を見る」=背景画を担当していた京本に想いを馳せる。 『ルックバック』にはさまざまな意味が込められているが、今回のアニメ版は漫画版よりも「背中(back)を見る」という表現にこだわっている。藤野の背中に始まり、藤野の背中で終わる構成からも、それは顕著だ。彼女たちが抱えた業を、最も端的に表現し得ると判断したからだろう。 背中というモチーフは至るところに登場する。藤野が京本から受け取る4コママンガのタイトルは『背中を見て』だったし、藤野は「京本も私の背中をみて成長するんだな~」という余裕綽々の発言をしていたりする。そして初めてふたりが出会ったときに藤野が書いたサインの場所は、京本が着ていたどてらの背中だった。 京本がこの世から去ったあと、藤野は彼女の部屋でそのどてらを発見する。大きく書かれた「藤野歩」というサイン。この瞬間、我々観客は彼女の名前が「歩」であることを知る。歩み続ける、という意味であることを知る。 大きな哀しみと喪失感を抱え、藤野はひとりペンを走らせる。物語を優しく締めくくるのは、haruka nakamura作曲・編曲、urara歌唱による主題歌「Light song」。パンフレットに掲載されているインタビューによれば、監督からは「エンドロールに希望や光に向かっていく讃美歌のような歌を」というリクエストがあったという。<業を背負った人間>に贈る讃歌。 『ルックバック』は、すべてのクリエイターたちに捧げられた、“業”の物語だ。 1時間に満たない58分という上映時間に、モノ創りのライトサイドとダークサイドが余すことなく描かれている。 やがてこの映画は、次代を担うクリエイターたちの背中を押す作品として語り継がれていくことになるはずだ。またひとつ、アニメーションの傑作が誕生した。
劇場アニメ『ルックバック』
■スタッフ 原作:藤本タツキ(集英社ジャンプコミックス刊) 監督・脚本・キャラクターデザイン:押山清高 美術監督:さめしまきよし 美術監督補佐:針﨑義士・大森崇 色彩設計:楠本麻耶 撮影監督:出水田和人 編集:廣瀬清志 音響監督:木村絵理子 音楽:haruka nakamura アニメーション制作:スタジオドリアン 配給:エイベックス・ピクチャーズ ■キャスト 藤野:河合優実 京本:吉田美月喜 ■主題歌 「Light song」 by haruka nakamura うた : urara (C)藤本タツキ/集英社(C)2024「ルックバック」製作委員会