今季も死球で乱闘騒ぎが続出…デッドボールで“選手生命”を絶たれた選手列伝
頭部への死球で「頭痛、吐き気、めまい」などの後遺症に
死球の後遺症に苦しんだのが、広島時代に首位打者、阪急時代に打点王を獲得した水谷実雄だ。 1983年、加藤英司との交換トレードで広島から阪急に移籍した水谷は、打率3割をマークしながらトレードに出された寂しい気持ちと、移籍後の貢献度を比較される加藤への対抗意識をバネに、自身初の130試合フル出場を達成。打率.290、36本塁打、114打点の好成績で、35歳にして初の打点王に輝いた。 だが、翌84年3月31日の開幕戦、ロッテ戦で2回の2打席目に土屋正勝から左側頭部に死球を受け、負傷退場。当初は「三半規管打撲で2、3日の静養」と発表され、5月26日の西武戦で復帰後初安打となる本塁打を放ったが、頭痛、吐き気、めまいなどの後遺症に苦しみ、打率.181、3本塁打、20打点に終わった。 翌85年5月、入院して徹底治療をした結果、頭部の後遺症は良くなったが、「その後の練習で肝心の体力、気力が回復してこなかった」と現役引退を決めた。 シーズン最終戦、10月18日の南海戦、7番DHで出場した水谷は、4打数無安打ながら、左翼線ギリギリの大ファウルとあと数メートルでスタンドインという大飛球を放ち、「もう1年、キャンプからやり直したら」と惜しむ声も出た。 引退会見では、「まあ、あれ(死球)が引き金にはなったけど、自分にもっと力があれば、もう一度バリバリやれるようになっていたでしょう」と最後まで相手投手への気遣いを見せていた。
左手首に死球を受け骨折した広島・前田智徳
アキレス腱断裂などの大けがを乗り越え、通算2000安打を達成した“天才打者”前田智徳(広島)も、死球が引退への引き金となった。 2013年4月23日のヤクルト戦、この日まで9打数4安打と当たっている41歳の代打の切り札は、1対1の8回2死一、二塁の勝ち越し機で打席に立った。 左翼席の広島ファンが「前田! 前田!」と大合唱するなか、1ボールから江村将也の2球目の変化球が内角をえぐり、ヒヤリとさせられたが、前田はのけぞるようにして避け、ボールはバットのグリップに当たってファウルになった。 そして、2-2からの5球目、内角直球が再び前田を襲い、今度は左手首を直撃した。前田はボールが当たった部分を抑えながら、怒りの表情でマウンドに向かい、たちまち両軍入り乱れての乱闘劇に発展。広島・古沢憲司コーチがヤクルト・荒木大輔コーチの胸ぐらを掴んで退場処分になった。 左尺骨骨折で全治2、3ヵ月と診断された前田は、手術後、復活を目指して懸命にリハビリに励んだが、「骨が修復するまで2ヵ月くらい」の復帰プランを立てたにもかかわらず、思うように回復が進まない。シーズンも終盤に入る8月末ごろ、「さすがに今回は無理かな」と思いはじめ、9月27日に引退を発表した。 10月3日の中日戦、8回に代打で現役最後の打席に立ち、投ゴロに倒れた前田は「故障だらけの野球人生だった。この広島で、カープと一途に野球ができたことを誇りに思う。これから強いカープとなり、未来が明るいことを願って引退する」の言葉を残して24年間の現役生活に別れを告げた。 死球は当たりどころが悪ければ、前出の3選手のように引退に追い込まれるだけではなく、掛布雅之(阪神)や井上真二(巨人)のようにその後の野球人生に暗い影を落とした例も少なくない。投手はプロの自覚をもって一層コントロールを磨き、打者は死球の避け方を上達させることによって、不幸なアクシデントを回避できるよう願うばかりだ。 久保田龍雄(くぼた・たつお) 1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。 デイリー新潮編集部
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