正座が苦手な外国人へのおもてなし 明治期の幻の乗り物「椅子駕籠」とは?
駕籠(かご)や人力車は今でいうタクシーのような役割をしていましたが、明治期に撮影された上記の古写真(こしゃしん)には、かなり進化した様子の駕籠が見られます。黒船来航以来、西洋からの文化や人の流入を物語る一枚ではないでしょうか。 江戸末期から明治期に活躍した乗り物の変遷について、大阪学院大学経済学部教授 森田健司さんが解説します。
駕籠以上、人力車未満「椅子駕籠」
時代劇を観ていると、現代の日本には存在しない人力の乗り物がよく登場する。いわゆる、駕籠である。木製の座席に人が乗り、その上に渡した棒を複数人が担ぐもので、まさに「人力の乗り物」だった。駕籠を運ぶ人々の肩にかかる重みは、普通の現代人にはとても耐えられないものだと言われる。 ところで、江戸時代には「我々が駕籠と呼ぶ乗り物」は二種類あった。側面に戸が付けられた上級武家向きのものは、当時は「のりもん(あるいは、のりもの)」と呼ばれ、普通に駕籠とだけ言えば、庶民も利用できるごく簡素なものを指す。ただし、どちらにも共通していたこともあり、それは乗客用のスペースが極めて狭いということでだった。 アメリカの初代駐日総領事(後に公使に昇格)を務めたタウンゼント・ハリス(1804~1878年)は、駕籠について次のように述べている。 日本の駕籠(のりもの)は、見たところフランスのルイ11世時代にカーヂナル・バリューが発明したといわれているアイアン・ケーヂ(鉄檻)のような恰好につくられている。それは至って丈が低いので、その中で直立することができない。また、縦身が短いので、全身をのばして横臥することもできない。腰の下に両脚を折って坐るということに馴れないものには、身体の重さが全部踵にかかってくるので、その姿勢をとることは容易に想像しうる以上に苦痛なものだ。 ― 坂田精一訳、ハリス著『日本滞在記(下)』(岩波文庫)、8ページ 駕籠は多くの場合、正座で乗り込むものだった。狭い上によく揺れるこの乗り物は、正座に慣れていた日本人にとっても、決して快適な乗り物ではなかった。ましてや、正座などしたこともなく、日本人よりずっと脚の長かった欧米人にとって、駕籠での移動はほとんど拷問に近かったようである。まさに「檻」だったのだ。 明治に入って、外国人がどんどん日本にやってくる中で、利用者に不評だった駕籠は少しずつ姿を消し、人力車に取って代わられる。しかし、この説明は決して間違いではないものの、一つ補足すべきことがある。それは、駕籠と人力車の間に、一部地域でわずかな期間だけではあったが、過渡期的な乗り物が存在したということである。それが、冒頭に掲げた写真に見える、「カゴ・トラベリング・チェア」である。日本語では「椅子駕籠」とでも呼ぶべき、不思議な乗り物だ。